ベアトリクスの贈り物
「お前からはいつも貰ってばかりだったから」
そう言った双子の兄からカノンの指にはめ込まれたのは、少し歪な形をしたシンプルなベガルタゴールドの指輪だった。
右手の薬指にはめ込まれたそれは、寸分違わずにぴったりであり、いくら記憶を思い返してみても指先のサイズを測られた覚えはないカノンだったが、その胸に湧き上がるのは例えようもない喜びと愛しさだった。
「参ったな…。今回は兄さんにお株を奪われたみたいだ」
「ふふ、いつまでもお前からのサプライズに翻弄されている私ではないという事だ」
頭をかきながらそう言った自分に悪戯っぽくサガは笑う。そんな姿を目の当たりにして、いつまで経ってもこの双子の兄に齎される言葉や気持ちに翻弄されっぱなしなのだとカノンは思わずにはいられない。
改めて自らの指にはめられた指輪をじっくりと眺める。その色合いはかつて海龍だった頃に纏っていた鱗衣と、この双子の兄と共に纏った双子座の黄金聖衣の色を掛け合わせたかのようだった。

あの戦いからどれほどの時が流れたのだろう。
女神とポセイドンの二柱の恩恵を受けて平和の基盤を固めたカノンだが、それは決して明るいだけの道のりではなかった。罪に薄汚れた神々の寵児だと陰口を叩かれたことすらあった。それでも地上と海界の平和の礎になる覚悟で二柱に忠誠を尽くしたこと、そしてそんな自分を支えてくれた双子の兄を伴侶として愛したことをカノンは後悔するどころか己の誇りだと自負している。
双子座を始めとする黄金聖闘士達は、かつての聖戦で冥王を破った青銅聖闘士達が継ぎ、そしてそのかつての青銅聖闘士達の位を新たな世代の者が継いだ。
少年だった彼らは青年期を経て壮年となり、聖域の中枢を担う職務に付いている。
壮年を過ぎた年になったかつての黄金聖闘士達は、女神の計らいで、残りの生を自分たちのために生きよと打診されたのが先日の事。
当然黄金聖闘士達は命のある限り女神の元で聖闘士として生きることを望んだが、女神、否、城戸沙織はそれを拒んだ。
生まれてから今日まで聖闘士として宿命づけられた生。しかし人としての生をも歩んだ今生の常勝の女神は、悪戯に聖戦を繰り返して人としての一生を取り上げてはならぬと強く思い、聖戦が終わった際に冥王と海王との間で協定を定めた。
命を落とした者達を蘇らせる代わりに、海界、冥界の領分を侵さずに共存していくことを改めて取り決めた。
地上、海、冥界の均衡を脅かすことなく采配した平和は永く訪れ、それ故に年を召した黄金聖闘士達の残り僅かな生を、平和を守るための戦いの責務から解放し、心から平和を享受する生き方を示したのだ。
勿論戦いしか知らない彼らをそのまま放り出すことはせず、グラード財団の傘下の企業で職業訓練を経てから適材適所の職務に付いて働く者もいれば、聖闘士を次世代に譲り聖域の中枢で働いていた際に溜めていた給金を元手に晴耕雨読の生活を希望する者など、それぞれの生き方を選び始めていた。
カノンとサガの生き方は決めていた。大いなる慈愛を持って自分たちを赦した女神と、女神の聖闘士でありながら海闘士として生きることを寛容したポセイドンのために人として最後まで役に立つ生き方を選んだ。それが聖闘士とは違った、新たなる試練であることは百も承知の上で。

しかし挫けてしまう恐れは微塵もない。何故ならば隣に互いに互いを支え合いたいと願う伴侶がいるのだから。
サガがカノンに指輪を送ったのは、今まで支えてきてくれた分と新たなる門出を踏み出したいという願いの表われに他ならない。
歪な形のそれは市販の物ではなく、同じく近いうちに故郷へ旅立つ牡羊座の同朋とその弟子である現在の牡羊座に手ほどきされながら作ったものなのだろう。
まじまじと指輪を見つめるカノンにサガはどこかいたたまれないような表情を見せる。
「その…お前が今まで作ってくれたものとは違って、慣れないからだいぶ不格好になってしまったのだ…」
バツの悪そうにそう呟いた兄に一瞬カノンは目を丸くするが、すぐににやりとした笑みを浮かべた。
何年経っても変わることのないふとした瞬間に見せるいじらしさが堪らなく愛おしくて可愛いと思うのは、ずっとずっと長いこと恋焦がれそして惚れ抜いてきたからだ。
不格好でもなんでも構わない。そもそも己は沢山の想いをこの双子の兄から貰ってきたのだから。
その想いをただただ形にしたくてしてきただけなのだからそんな風に卑下をするなという気持ちと、あまり可愛いことを言ってくれるなという気持ちがないまぜになり、指輪が嵌った掌でサガの身体を抱き寄せる。
「わっ…」
突如抱き寄せられてすっぽりと腕の中に収まったサガの高貴なる海の色をした髪を優しく右手で撫でていく。
「不格好なんかじゃない。お前がオレのためにこさえてくれた物なんだ」
また一つ、お前からの俺への宝物が増えたと囁けば、小さく腕の中で体が震える。
そんな兄の反応にカノンはくつくつと笑いながら、幾度もなく身を横たえた軋む音が煩くなってきた古い寝台の上に、年甲斐もなくサガと共に倒れ込む。
長い間、後進の聖闘士を導く役目を担うために、双児宮から新たに居を移したこの小屋も、そろそろ建て替え時かもしれない。
立つ鳥跡を濁さずではないが、新たに旅立つ日が来るまで、この小屋で過ごすであろう僅かな時間もサガとの良き想い出でいっぱいにしようと、カノンは指輪を嵌めた指にいつもよりも愛しさを込めて兄に触れ、サガもまた同じくらいの熱量を持った愛情で弟の想いを受け入れていったのだった。

◇

朝露に濡れた平たんではないこの地を踏みしめて歩く影は一つだった。
次代の双子座に双児宮を託し、その後未来の聖闘士の育成をするために住まいとした小屋はすでに無く、ぽつんと立つ岩があるのみだ。
杖を付いて歩いてきた影の主は、そのまま岩の前でゆっくりと膝を曲げて見かき抜かれた表面をじっと見据えた後、プラチナブロンドの指輪が嵌った皺だらけになった左手で愛し気にそれを撫ぜた。
「三度目はお前が先に旅立ってしまったな…」
手と同じように皺が刻まれながらも、若い頃の美しさの面影はそのままに、サガは先に旅立った弟の墓を撫ぜた。

人としての残り僅かな時間、女神の望み通り人として冥府へと旅立った弟は、サガを始めとした彼を慕う人間達に見守られて逝った。聖闘士として平和を守るために雄々しい散り様ではなく、人として生き人としての安らかな永遠の眠りについた。
カノンの墓は表向きは聖域にほど近い墓地に埋葬されている。そのためこの岩の下には何も眠ってはいない。
だがこの場所は、サガにとっては神聖な場所に他ならなかった。
いよいよ最期となったその時、カノンはサガだけを呼び寄せた。
老衰の末に訪れる永遠の眠りをカノンは恐れてはいないし、自分もすぐにそばに逝くのだからとサガも自らに言い聞かせ覚悟を済ませていた。
だが、いざ愛する者の臨終の場面に立ち会うとなると、とめどなく涙ばかりが溢れてくる。
そんな兄の頬にカノンはそっと手を添えて、ゆるりと唇を動かし言った。

”泣くな、とは言わない…。だけどその涙でこれからのお前の人生が曇るのは、俺の本意ではない…”
”俺が逝ったら、共に未来の希望を育んだあの場所に、お前だけの俺の墓を建てて欲しい…”
”そこで俺を偲んで欲しい。泣きたいときに泣いて欲しい…”
”お前のための俺の墓だ…。立派な墓石など必要ない…。お前が、俺への弔いに選んだ、その事実だけで俺は十分だ…”

そう言い残し、年季の入ったベガルタゴールドの指輪を嵌めた、現在のサガよりも少ない皺の入った手でその頬に触れてカノンは逝った。
その弟の指輪は、今はサガの左手に嵌められている。
カノンの指のサイズを測るのは忍びなくて、こっそりと己の右手で取ったサイズを元にして初めて作った不格好な指輪をカノンは喜び、ずっと嵌めていてくれた。
仕事で外さなければならないときは、上等なケースに入れて保管するほどに大切にしてくれたことを、左手の指輪を見つめることによって思い出される。
そして右手の指輪は、新たな人としての生を歩み、しばらくしてからカノンに渡されたものだ。

”やはり俺は兄さんにサプライズをしないと気が済まない性分らしい”

そんな一言を添えて渡されたその指輪は、器用な弟らしく既製品と呼んでも差支えのない出来栄えだった。
その記憶が呼び水となり、あれから人として時を重ねた時間で生まれた温かな想い出が次々と溢れ出てくる己に、サガはくすりと笑みを浮かべ、両手でその岩を撫でた。
「…私は…、いつもお前に貰ってばかりだな…」
カノンが自分より先に逝くのだと覚った時は、二度も弟を置いて逝った報いだと思った。
かつての十二宮の乱の際、自らの左胸を突いた痛みをカノンに味わわせた挙句、単身で邪神ケールに挑んだこと。聖戦の折には仮初の命が朝日に溶けて消えゆく姿を悲しむ暇も与えずに、双子座としての聖闘士としての使命を全うしろという願いを託し、それを引き受けてくれたこと。
全部カノンは受け止めてくれて、そしてそれ以上の愛情を言葉で、形でいつも返してくれていたのだ。
だからカノンが逝き、これからの時間を一人で生きていくことに伴う痛みは、甘んじて受けるつもりだった。
だが、カノンが逝って変わらず時が流れていく今、弟は自分に報いなどを望んでいないことを知った。
こうして今もカノンのことを思い出せば、己の胸は悲しみに溺れることはなく、柔らかな想い出で温かく包まれているのだから。
死に急いできた愚かな私にゆっくりと生きて欲しいと、心からカノンに大切に想われていたのだと、いつも何度でも自覚することが出来るのだから。

ぽつり、と水滴がサガだけのカノンの墓に滴り落ちる。
元来涙腺の弱い彼の瞳からあふれる涙の雨は、ぽたぽたとカノンの墓の上に降り注いでいく。
だけどその涙は決して悲しみで流している物ではない。

「昔も、今も、私は幸せ者だよ、カノン…」

いつか必ず訪れる再会の日まで、カノンと共に育まれた想い出と共に改めて生き抜こうという誓いと、そんな弟への愛情が込められた、温かく優しい幸福に満ちた涙だった。


ベアトリクスの贈り物 今も、昔も、これからも、あなたは私の想いの全てで宝物。


BGM:ベアトリーチェ(GREENSLEEVES/大竹佑季)
元になったネタはこちらから。
このツイートを見て、今回のお話が浮かんだわけですが、賛否両論があると思います。
聖闘士として生まれてきた者たちを一般の人間としての生を今更全うさせるのはどうよとか色々考えたのですが、戦いがなく、無事に後進が誕生した平和な世の中で、人の生を歩んできた女神ならきっとこう思うだろうなという考えの元、この話が出来ました。
平和になった世の中で先に逝くのはカノンの方だと思います。
一人残される悲しみを知っているけれど、それでも今まで死に急いできたサガがゆっくりと生きていくことの喜びをかみしめてからこちらに来て欲しいと心から願っていると思います。
そのためにカノンは一人残して逝くサガが悲しみに塞がないようにたくさんの想い出を作ると思います。
そんなことを仲良くして下さっているカノサガクラスタさんとの会話から連想して書きました。
個人的にはBGMになった”ベアトリーチェ”の歌詞や曲調の雰囲気を出したいと思っていたのですが、割とイメージぴったりに書けたので満足です(*´艸`*)
(2019/08/18)

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