今夜も悲喜劇の幕が開く――…-


「う、うう…」
――くく、サガよ、何を泣く必要がある?
教皇宮の湯殿にて、たった今出来上がった死体を前に傍流するサガの脳内に蔑む声が響く。
――まだ、慣れぬか?そんなわけあるまい
「黙れ…!」
とめどなくあふれる涙を拭おうと顔を覆った手にはべっとりと真新しい血が付いたままだ。
――いい加減で自分に正直になるがいい
「っ…!」
脳内の自分が吐いた言葉に、サガの春の緑を宿す瞳はこれ以上ないほどに見開かれた。
――なあ、サガよ…
ぐらり、と頭が後ろに傾いでいく感覚。十三年前に起きた出来事の積み重なりで、本格的に明確化した、もう一人の自分との入れ替わりの瞬間。
「私は、消えぬぞ」
見事な黄金の光を放つかのような髪が漆黒の闇へ、涙に濡れた春の緑を宿す瞳は禍々しい紅い月へと変わっていく。
「いくらお前が、消え失せろと叫んでも、な」
物言わぬ罪無き従者の死体を一瞥し、それを担ぎ上げて、黒いサガは空間を切り開いて湯殿を出る。
一瞬の浮遊感を感じた後、たちまちその身体は月の光すら届かない、鬱蒼とした森へと躍り出た。
「くく、いつみても哀れな者よの、サガ」
――…うる、さ、い
聖域からの脱走者を処刑した後、その躯を野ざらしにする崖下へ、力任せに死体を放り投げる。担いできたため一糸まとわぬその身体にも穢れた血がこびりついたが、後で流せば問題はないし、何より心の奥底に閉じ込もった主人格のサガが、その血に触れて悲鳴をあげている感覚が心地よい。
「物静かで清廉でお優しい、女神とはまた違う形で慕われるお前…。そう、まるでセレネのように」
――…っ!
夜露に濡れた柔らかな土が素足に触れる。まるで積み重なった死体を踏みつけるがごとくの感触だった。
「お前という月の光に導かれ、心酔していた者達は皆、他でもないお前の手によって無残に散らされた…」
くっくっく、と黒髪のサガは両手を広げて芝居がかった口調で尚も語りかける。強引に、その意識を閉じようとしている月の女神の化身の自分に向けて。
「ここに打ち捨てられた者ばかりではない。聖域きっての英雄であり眩く逞しいエンディミオンを、奴を慕っていたパーンに斬たせたのは誰だ?」
――…やめろ
「清廉潔白とは裏腹の口先で討伐に赴かせたのは他でもないお前であろう?」
――…やめてくれ
黒いサガはじわじわとさらにぬかるむ場所へと進んでいく。それはさながら底なし沼のように、そして死者の呻きのように、彼の足に絡みついていくが、当の本人は心地よさげに、泥の舞台で声を張り上げる。
「身の程を知らない振る舞いを繰り返す、お前を健気に支えようとしていた、影でありながらもお前のヘリオスであった双子の弟を、スニオンの牢に投棄したのは誰だ?」
――…やめてくれ!!
「いいや、止めぬ。お前が、”いい加減で正直になるまで”」
――…~~~っ!!
もう一度、噛んで含めるようにその言葉を口にした途端、頭の片隅で何かがぷつりと途切れた感覚に、黒のサガは面白くなさそうに片目をしかめた。
「…ふん」
確実に意識を失った主人格を軟弱者めとそしりながら、彼の足はぬかるみから僅かに生い茂る草の上へと移動する。
「まあ、いいか。そう簡単に壊れてしまっては面白くはないからな」
丁度そこは重なり合う木々が途切れ、僅かながら月光が差し込む場所であり、その光を眺めながら、これ以上脳の奥に閉じこもる彼をいたぶっても意味はないと判断した黒のサガは、次元を渡る空間の扉をこじ開ける。
来た時と同じく、一瞬の浮遊感の後、戻って来た湯殿にて、すっかりと汚れた身体をもう一度清めるために、黒いサガは湯を全身に浴びて身を清める。
血にまみれて、泥にまみれて、それでも尚、衰えない美しさ。否、汚濁に塗れれば塗れるほどに、その身体の美しさは輝きを増しているようにすら感じる。

「…クク、サガよ。愚かな私の母君よ」
愛してるよ――…

湯殿の天窓から見える仄かな月光に微かに白く照らされた黒髪を、黒のサガは愛おしげに口づける。
この身体からセレネである彼の意識が完全に潰え、ヘカテである自分のものになるまでの間だけは、己なりに愛してやろうという想いを込めて。

BGM:月光(犬神サアカス團/ここから何かが始まる) 2017年9月16日に行われたワンドロに参加しようと思って温めてたネタです。 お題は”月光”とのことで、最初鬼束ちひろさんの「月光」をモチーフに書こうと思っていましたが、そういや犬神サアカス團も同じタイトルの曲あったよな、と聴き返してみたら、脳天をぶち抜かれるかの如くに怒涛のようにストーリーが流れ込んできました。 なのでもう思いっきり、リスペクトする勢いでざかざかと書き殴りました。 ちなみに黒サガが善サガを「母君」と言っているのは、個人的な解釈の結果です。それもその内書きたい。 (2017/09/22)

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