不眠の笑みと無力な王子
「サガ、入るぞ」
提出する資料の束を抱えて執務室を訪れたカノンが遭遇したのは、自分より先に来たらしい文官がサガに資料を手渡しているシーンだった。
教皇宮の玉座ほどではないが、立派な椅子に座るサガと文官が向き合っている執務机は、開いた扉から少し距離を開けて設置されている。更にサガの周りには提出された物やこれから渡すであろう紙の束がそれなりの高さに積まれており、双子の片割れの方から扉が開いてカノンが来たことを認識しづらい状況にあった。
カノンが訪ねてきていることに気づいていないサガは、一言、二言を文官にかけ、そのままふわりと笑いかけた。資料を直に手渡された文官は顔を赤くし、持ったばかりのそれを取り落としそうになっていた。
まるで神のごとく、聖人のごとくと称された兄の笑顔。見るものすべてを蕩かすような羽根のような柔らかなそれ。
しかしカノンはそんな兄に苦虫を噛み潰したような顔をして、ズカズカと大股で執務机へと向かっていく。
「あ、わ、っカノン様!?」
ズンズンズンズンと、擬音が付くほどの勢いでこちらに向かってきた双子座聖衣を纏う教皇補佐の実弟に、その文官は可哀想なほど怯えていたが、それに構わずカノンは二人の間に文字通り横やりを入れるかのごとく、乱暴にその手を机の上に置いた。
「おい」
「ん、ああカノンか」
己の怒りの表情を見てもふわりとした笑みを崩さない兄に、いよいよもってカノンの不機嫌指数は高まっていく。そんな双子の様子を見て、関わらない方が無難だと判断した文官はもつれる足を叱咤して、執務室から慌てて立ち去って行った。
「どうしたのだ? 何かあったのか?」
サガの言葉をあえて聞き流し、脇に抱えていた資料を兄の目の前に突きだす。それを手に取り、無造作なように見えて実はしっかりと優先順位ごとに並べているスペースにそれを置いたのを確認したのち、カノンは茫洋とした表情のサガを怒鳴りつけた。
「この愚兄! 何が大丈夫だからだ!」
弟の突然の怒声にも、サガはピンとこない様子で、ん?と小首を傾げる始末である。いよいよもってこれ以上はダメだと判断したカノンは、サガの頬を両手で挟み、その額をこつんと宛がった。
「ん、カノ…ん」
そこから送り込んでやるのは、己の小宇宙。双子だからこその波長で、疲労がピークに達している兄に癒しを与えていく。
「…や、め…」
掠れた声は、思わず閨の時間を連想させるが、無理に無理を重ねた時に表れる兄の兆候を目にして、欲情出来るほど今のカノンに余裕はない。
ここしばらく兄の体調が思わしくないのは知っていた。そんな兄を置いて海界へ出向くのは抵抗があった。何度も何度も無茶はするなと念を押してもサガは、大丈夫だと繰り返すばかりで、決して解かったとは言わなかった。
その結果として現れるのが、先ほど文官に見せていたような、ふわふわとした笑みなのである。
そんな表情を他人に見せるなと独占欲をむき出しにする以前の問題だ。見るものを全て虜にするような優しいそれは、天使や聖母というよりも、どこか白痴めいているその笑みは、自分の目の黒い内には決してさせないと誓ったはずなのに。
かくん、と意識を失ったサガの身体をカノンはそのまま抱き留める。双子座聖衣を纏ったままだったので、アームパーツにしたたか鼻をぶつけさせないように勿論気をつけて。
「…」
何度口を酸っぱくして言ったところで、兄はただ大丈夫だと繰り返すだけだろう。自らが犯した罪の贖罪として二度目の生を生き無ければならないと、自律しているのなら尚更だ。
13年前、決定的に道を違え、女神への大逆の道を歩んだ頃に戻りたいとは当然微塵も思わない。が、あの時の方が今よりもサガは、自分に対して遠慮なく素を曝け出していたようにすら感じるのだ。
ゆっくりとサガの身体を抱えて立ち上がる。そのまま早退させてしまいたいところだが、たかが疲労がたまったくらいでと、更に兄が無茶をするのは火を見るより明らかだった。
とりあえずはと、カノンはサガを横抱きにし、執務室を出て仮眠室へ向かう。光速移動をするまでもない距離だが、こんなサガを、自分以外の誰にも今は見せたくなかった。
こぢんまりとした小部屋の扉をあけ、薄暗い室内に設置されている寝台にサガを寝かせると、そっとその髪に指を差し入れた。
「兄さん」
光源がほとんど無い部屋で眠るサガの顔色は白く、辛うじて小さく寝息が聞こえることが、彼が生きていることに他ならないように思えて仕方がない。
「頼むから…」
低い体温の兄の掌を両手で取り、自らの額に祈るように押し当てる。
「俺の前でまで、大丈夫なふりをするのは止めてくれ…」
殆ど聞き入れてもらえることがなかった自分の願いだが、こればかりは譲れない。兄が自分の言うことを聞いてくれない、却下されたことに拗ねてそっぽを向いている子供ではないのだから。
サガが起きるまでの間、自分が代わりを務める分には遜色はない。だから後、もう少しだけサガの側にいようとカノンは、彫像のように整ってはいるがどことなく作り物めいた寝顔をさらす兄に、切実に、静かに訴えたのだった。





カノンはサガの全てを受け入れる度量はあると思うけど、これだけは譲れないと思う。 (2017/09/15)

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