還元への改竄-Ma Che`rie-
-Ⅲ-
「信じない――。」
自室よりも簡素で、殺風景な間取りの空間に位置する堅く冷たいベッドの上に無造作に横たわるシドの身体。
その顔の上に掛けられた、正方形の白い布。
恐ろしいほどの静寂の中、酷く虚ろに呟いた声でも、狭い石の壁に反響する。
光など存在しない虚無の中、バドはただ立ち尽くすだけだった――。
十歳の頃に交わした、約束の証。
それは今にして思えば、子供のままごと程度の物でしか無かった事が、今になって浮き彫りとなる。
あの日から芽生えだした感情は、やがて思春期を迎えた彼等には、甘いものとしてではなく、狂おしいものへと形を変えていった。
それを自覚してしまった二人は、互いの唇には直に触れようとしなかった。
否――。
触れることが出来ずにいた。
幼く無邪気だったあの頃に比べて、彼等は物事を知りすぎていたのだ。
それは、成長と言う過程の間では仕方の無い現象だった。
そして互いの胸に抱いたこの想いは、罪の意識となって常に彼等の心に重く圧し掛かって行ったのだった――。
しかしそれ以上に、残酷な現実が彼等の身に降りかかることとなった。
成長するに従い、シドの身体は良好に向かうどころか、更に悪化の一路を辿るばかりで、ついに自宅での療養は限界になり、遠方のサナトリウムに長期入院することとなった。
その事を告げられた時に、シドは悲しげに顔を歪ませて、弱々しく頭を振った。
「私は・・・、このままでいい・・・。」
静かな・・、しかし揺るがないまでの決意の一言がバドの心に突き刺さる。
大人しそうな外見と反し、一度決めた事は何があっても譲らない、そんな弟をバドは良く判っていた。
そして何故、彼がこの場所に留まりたいのか、その理由をも。
シド以上にバドの方がここに居て欲しいと、声高にして訴えたかった。
シドが療養の為に移されるサナトリウムは、気軽に行けるほどの距離ではなく、ましてや今は両親を亡くし、この家の当主となった身分のバドは、シドに会いに行ける時間も易々と作れない程忙しい日々を送っていた。
だが、シドの身を案ずるならば、兄として・・・、そして一人の人間としての最小の方法は判っている。
「シド・・・。そんな我侭を言うな・・・。」
人払いした後、二人きりになった部屋でバドは、ふてくされたように窓の外を眺めているシドに諭していた。
季節は幾度と無く巡っていたが、あの誓いの時と同じ、命の息吹が聞こえる時期で、外はもう日が沈みかけている黄昏時。
彼等の瞳と同じ、沈みかけた太陽がオレンジ色の光をこの白い部屋に送り込んでいる。
「もう、子供じゃないのだから・・・。」
そう――。
もうあの頃とは違う・・・。
この感情が“罪”だと知ってしまったからには、もう傍には居られない。
シドが遠方のサナトリウムに療養に出した方がいいのでは?と医師から切り出されたときに、心の底で安堵したのもまた事実だった。
距離が開いてしまえば、この感情も忘れられるかも知れないと。
ギリギリまでに保たれたラインが決壊する前に、この手で想い人を壊してしまう前に――・・・。
伝えられない禁忌。
ならばいっそ離れてしまえばいいのだと――。
「・・・・,て・・・い。」
「え?」
不意に窓の景色から、バドの方へと視線を移していたシドが、必死な表情で懇願するように、縋る様に、傍らに立つ兄を見上げていた。
やせ細っていて、どこか青白さを感じさせるが、相変わらず綺麗な形の唇が震えながら消え入りそうな声で、だがはっきりとこう告げた。
「あの時の約束を・・・、今、果たして下さい・・・。」
「な・・・っ!?」
突然のシドからの告白にバドの身体は強張った。
しかし次の瞬間には、衝動的に目の前の彼をかき抱こうとする自らの手。
それをどうにか押し留めながら、バドは苦渋の表情で頭を横に振った。
「どうして・・・っ!」
兄の否定の意思表示に、シドは大きく瞳を見開いて、逆に手を伸ばしバドに縋りつこうつする。
が、バドは断腸の思いでシドに背を向けた。
「兄さん・・・っ!」
「明日は早く出発するのだから・・・。もう休め・・・。」
必死に冷静さを装いながらそう言い、部屋を退出しようと歩き出す。
見慣れているはずの部屋の出入り口を繋ぐドアとの距離が、やけに遠く感じる。
「兄さん!」
弟の声が耳に届き、思わず振り返ってしまいそうになる自らを叱咤させて、バドは止まることなく扉へと歩いて行った。
だが。
「!?」
ドアノブに手が触れる刹那、バドの身体は急に後ろへと引っ張られる。
恐る恐る後ろを振り返ると、ベッドから起き出したシドが、背中から前に手を回し、まるで抱きとめる形で自分を押し留めようとする姿が目に入った。
「離せ。」
「嫌です・・・。」
「シド。」
それでも尚且つ冷静に、弟を振り払おうとするが、か細い枝の様な腕は、まるで身体を縛り付ける鎖の様で、解けない。
「だって・・・。」
今まで気丈に見上げていたシドの瞳が潤み、その目じりから一筋の涙が零れ落ちる。
「あの時に・・・。」
バドの脳裏には、あの日の光景が、今のシドと被さるようにして思い出されていた。
何も知らなかった無垢な頃。
知らない――?
いや・・・。
「八年前のあの時・・・。」
知っていた。
あの頃から。
「兄さんが言ったのですよ・・・?あの頃と気持ちが変わっていなければ・・・。」
変わってなどいない。
変わるはずが無い。
俺は・・・。
「え・・・?」
「それ以上言うな・・・、シド・・・。」
急にこちらに向き直ったバドが、シドの細身の身体をかき抱いたのは、ほんの瞬きをする間の事だった。
あの日と同じ様に、僅かに背の低いシドの後頭部と、肩に手を回して、自らの方へと更に引き寄せるように力を籠めていく。
「忘れてなどいない。」
シドの肩口に顔を置き、その耳元に囁きかける。
「忘れるわけはない・・・。」
今まで、押さえつけて来た気持ちが、一気に心の底からあふれ出し、満たしていく。
罪の意識ゆえ、想いを忘れようとした。
しかし・・・、それは大きな過ちだった。
お前を想う事が、互いを想う事が罪ならば・・・。
俺はお前の分のそれを背負う。
だから――。
「好きだ。」
封印を切った想いは、これほどまでシンプルで、しかし何よりも気高い意味を持つ言葉となり、シドの耳へと届く。
堪えきれないように涙を流しながら、あの時と同じ様に、兄の身体にしがみ付き、きつく抱きつきそして・・・。
「ハイ・・・、私も・・・・。
貴方が好きです――・・・。」
彼もまた、積年の想いを溢れさせて、一つの言葉に乗せて、たった一人の人へと贈る。
いつしか互いの瞳を見つめあいながら、バドはシドの頬に手を添えて、
シドは、バドの首に手を回し――。
白い壁には夕日が、段々と顔を近づけていく影絵をくっきりと映し出す――。
あの日に交わした約束は、今こうして一つの結末に辿り着いたのだった―――。
「信じるものか――・・・。」
バドの手が、シドの顔に掛けられている白い布の端をつまみ上げて取り去り、そしてそれを床に払い落とした。
シドの顔は闇と相成って、酷く青白く映っていたが、表情は穏やかで、ただ眠っているようにしかバドには見えなかった――。
誓いを果たしたあの後。
二人は最後の夜だからと、一つのベッドで眠りに落ちた。
互いの気持ちを確かめ合った今、二人を隔てるものは何も無いと。
そう信じていた。
しかし――。
「は・・・っ・・・はぁ、はぁ・・・・っ」
「・・・?」
真夜中、シドの喘ぐような声に目覚めたバドは、寝ていた身体を起こし上げて、隣にいる弟の姿を確認しようと、ベッドサイドの灯りを小さく点けた。
「シド?」
眠っているはずのシドはぐっしょりと汗をかき、苦しげな呼吸をひっきりなしに漏らしていた。
「シド!?おい、しっかりしろ!!」
しかしバドがいくら声をかけても、シドの意識はこちらには向かない。
嫌な汗が背筋を伝っていく中、バドは部屋を飛び出して、使用人にかかりつけの医師を呼ぶようにと取り付けた。
そして急いでシドの元に戻り、相変わらず、苦しげに喘ぎ続けているシドの手を握り締め、必死に名前を呼び続ける。
どうしてだ・・・?
何でこんな事に・・・・。
「ぅ・・・。」
幽かな声と共に、握っていた手が反応を示して、苦しげな息の元、シドはゆっくりと瞳を開いていく。
「シド!」
握り締めていた手に、もう片手を添えて、包み込みながらバドは弟に声を掛け続ける。
「もう大丈夫だ。今医師が・・・。」
「良いのです・・・。」
その声を遮るようにして、シドが相変わらず辛そうに息を吐きながら告げた。
「もう・・・私は、長くはない・・・。」
「な・・・!?」
「判って・・・ましたから・・・。」
汗を滲ませながら、それでも無理に微笑みながら、シドはバドの元に開いている一方の手を差し伸べた。
「貴方に・・・伝えられて・・・・、良かった・・・・。」
そのひどく温かい手が、バドの頬に触れられた時、本能的にバドの瞳から涙が溢れた。
死ぬ?
長くないだと――?
「嘘だっ・・・!」
こんなにも温かい弟が――。
やっと想いを告げることの出来た、愛おしい者が――。
俺を置いていく筈がない。
「生まれてきて、良か・・・―――。」
パタン。
シドの手がバドの頬から糸の切れた人形の様に崩れ落ちるようにして離れていったのと、医師が駆けつけてきたのはほぼ同時のことだった。
「お前が、俺を置いていく筈が無い。」
数時間前、事切れたシドが屋敷の地下にある安置所に運ばれてきてから、バドはずっと立ち尽くしたままだった。
胸の上で組まれているシドの両手に、そっと掌を重ね合わせた後、ゆっくりと息が聞こえない唇に、自分の顔を近づけていく――。
この国の風習では、死した者は自宅の地下に安置され、一晩だけその者に最も近しい間柄の人間が付き従う。
それは近親者であったり、近親者がいない場合は恋人であったり、死した者の魂を鎮める為、最後の慈悲の現れの習わしだった。
「お前がこの世にいないなんて、俺は信じない――。」
夜明けの鐘が鳴り響く頃、司教と牧師が葬式を挙げる為に、この石造りの部屋に降りて来て扉を開けると、そこは既にも抜けの空だった――。
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