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暗く立ち込めた、血の様な赤色の空の下で、一人彼は待っていた。
幼少の頃に、大人の自分達からすれば飯事の様な戯事であろうが、自分達にとっては神聖な誓いを互いに捧げたあの日の草原で、彼の人を待っていた。
白い絨毯の如く、過ぎ去りし彼の頃を見守っていた可憐な花達は、あたかも首を狩られたかのようにそろって枯れ果てていた。
しかし、今、死に絶えた丘の上に座る、白い着物を纏った彼の指に嵌められているシロツメクサの小さな花輪は、灰色と赤と闇との景色の中では輝くように鮮やかに健気に存在していた。
“兄 上 ・・・・。”
か細い声で呟いた言葉と共に、零れ落ちる笑顔を見る者が果たして居るならば、彼は何て幸せそうに微笑む事か・・と思うことだろう。
そしてまた、其の笑みに浮んでは消えてゆく翳りを目に留めることが出来る者ならば、彼は何と悲しそうに笑うのか・・・と思うだろう。
“早 く ・・・。”
しかし静かに紡ぎ出される声は、あくまでも穏やかで、時折左手を翳してシロツメクサの指輪を愛おしそうに見つめる彼の心は、安らいだ気持ちで満たされていた。
囲 女~婀 娜 ざ く ろ~
- 其 の 壱拾壱-
「ならば、お前はそれを認めると言うのだな?」
「あぁ・・・。」
暗く狭い、世間から切り取られた箱の様な区切り部屋の中、粗末な作りの机を挟んで、屈強な初老の男とバドが向かい合い話し合っている。
まだ昼間だと言うのに、陰惨としたこの部屋の内部の照明は、机の端の方に置かれた蝋燭の灯火のみで、それが更にこの部屋に立ち込める鬱蒼とした重い空気を増長させていた。
きっちりと襟を詰めた黒い制服に身を包んだこの男は、部屋の戸口に立つ二人の男に顎でしゃくって合図を示すと、彼らは椅子に座るバドの両脇に立つ。
「お前を、大地主殺害及び放火の大罪で捕縛し、刑を来るべき日に執行する。」
取調べを終えた男の宣言と同時、二人の警官によって脇を固められ起立させられたバドは、彼らによって投獄させられる為に取調室を後にしたのだった。
あの日・・。
あの大火事の中、奇跡的とも言える生還を果たす事の出来た二人が、収容された病院に、三人ほどの屈強な警官が訪ねてきたのは、バドの負った怪我も癒え、まだ目覚めないシドの傍らにいてその手を静かに握っている時だった。
比較的軽症で済んだバドは、運ばれてきて三日ほどで回復したが、あの場所に長く留まり続け煙を多く吸い、死ぬつもりでその身を横たえていたシドの意識はいまだ回復せずに昏睡状態だった。
それでも診断した医師は、“峠は越えたのだから、目覚めるまで傍に居てやりなさい”と告げ、微動だにしないまま呼吸だけを続けているシドの傍らで、その白い手を取り、名前を呼び続けていたのだった。
『シド・・・。』
握り締めている左手を、己の両手で包みなおしながら、その手の甲に口付けて、横たえる弟の身体の脇に、両肘をつく。
『シド・・・・・・。』
医師は更にこう付け加えていた。
“たった一人の、大切な肉親なのだろう。”
あぁ・・・、そうだとも・・・。
大切で、大切すぎる想いに気づかされ、自分だけが苦しんでいると思い、酷く傷つけてばかりいた。
シドを愛していたからこそ、許せなかった彼の選んだ道をなじる様に彼を組み敷き、辱めて、それでも手放してしまったのは自分の方で・・・・。
でも・・・。
バド・・・、愛しています・・・・。
そう、彼が告げてくれた言葉で、全てが報われたのだ・・・。
『俺も…愛しているよ・・・。だから・・・・。』
どうか目覚めてくれ。そして・・・。
俺と一緒に生きていって欲しい・・・。
失った時間を取り戻す為に、誰も知らない場所で二人だけでやり直そう・・・。
その時だった。
大きく病室の扉が数回叩かれ、返事をする暇もないままどやどやと黒い襟を詰めた制服を着た三人の男が入ってきたのは。
『何だ?あんた等・・・。』
シドの手をそっと取り外し、そちらを見ると、三人の中で一番位が高いと思われる男が、一歩前に踏み込み、こう切り出してきた。
『我々は監獄の者だ。』
『何?』
『あの屋敷の火事で、後の捜査で不審な点が出てきてな。』
『!?』
寝耳に水のその発言に、バドの顔が強張ったが、そんなことには構わないように、その警官は畳み掛けるように話を続けた。
『あの焼け跡の中から、出て来た主の遺体に絞殺された跡があったのだ。』
『なんっ・・!?』
そのまま思わずシドの方を向き直ろうとしたが、それをぎりぎりで押し止めたバドは、その場で固まったままで警官の言葉に耳を傾ける。
『そして聞く所によると、あんたの双子の・・・、そう、そこで眠っている弟さんが、彼の家に囲われていたそうではないか。被害者である交友関係者全員がそう証言している。』
思わずバドは立ち上がり、無防備なまま眠り続けているシドを庇うように前に歩み出、ちらり・・・とシドの顔を盗み見た。
『尚且つ、被害者とその交友関係者は、あんたの所の廓を潰そうと水面下で画策していたそうだな・・・。その矢先に計画者である被害者の家屋が全焼し、主は殺された・・。そしてあんたはすぐさま自分の館を畳んだそうじゃないか?』
ニヤニヤとしながら、矢継ぎ早に言葉を繰り出す警官と、その後ろで出入り口を固めている二名の警官を、バドは唇をぎりっと噛み睨みすえる。
この時代の警官に目を付けられた者は、例えそれが無実の罪であっても連行され、自白を前提とした拷問を課せられる。
そしてそれに耐え切れずに自分がやったと白状すれば、すぐさま刑罰が課せられ、特に殺人と放火、この二つの大罪での冤罪者は白状してしまえば命は無い。
人を守る為、無実の人間を落としいれ、世間を偽の平和で飾り立てる生業の、血に飢えた正義の味方共。
そこまでご丁寧に説明されたバドは、事情を察した。
例え警官が言っている事が全て嘘だとしても、百歩譲って本当だとしても、シドを奴等に渡す気など毛頭無い。
そしてそれが本当だとしたら尚更の事。
シドは自分の為に、その手を汚したのだ。
自分の保身の為、最も嫌悪すべき男に売り渡した、この愚兄の為に・・・。
ならば俺の成すことは・・・・。
『言いたい事はそれだけか?』
ずい・・・っと前に歩み出たバドの挑戦的な視線に一瞬警官達は怯むが、それに構わずバドはす・・・っと両手を前に差し出す。
『あんた等の言うとおりだよ。彼奴は、弟を送り込んで油断させ、そして隙を見て俺が殺った。』
あっさりと自分の罪を認めたバドに、どよめく警官たちを尻目にして、更に彼はこう告げる。
『言っておくが、シドには何も罪はない。しょっ引くなら俺をしょっ引けよ。』
お前の為に俺が出来る事。
お前の為の俺の贖罪・・・。
『ああ・・・ったく、証拠も何も、全部燃やせたと思ったのに、あんな大芝居を打ったからには、捜査の目もそらせたと思ったのに、あのヒヒ爺が。くたばる寸前の最後の最後まで、往生際の悪い奴だったぜ。』
そう、自嘲的に笑いながら、自分から前に近づいてくるバドに、面食らっていた警官達だが、自分達の誘導尋問が成功したかと都合の良いように解釈し、バドの身柄を拘束したのだった。
それに跡形も無く燃え尽きてしまった現場は、再捜査の目処もどうせ立たない。
双子なのだからどちらの自白が無い限りそれを証明できない・・・、言ってしまえば証明したのならそれはそれで構わぬと、自白代わりの拷問のてまと時間が省けたとばかり、彼等はバドを連行し、形だけの最終取調べを行って、独房へと放り込んだのだった。
シド・・・。
シド・・・・・!
シド――!!
「――っ!?」
バドが冷たい独房の中に入れられたのと同時刻、兄の自分の声を呼ぶ声が聞こえたような気がしたシドは、びくんと身体を竦ませて目を覚ました。
「あにうえ・・・・?」
淡い白の天井を見上げながら、目覚めるまでとずっと握られていた左手の平に、微かな温もりを感じながら、シドはゆるりと身を起こしバドの姿を探し求めた。
「兄上・・・。」
だが、耳に残る声は幻聴だと言わんばかりの殺風景な白い壁と、今自分が横たわる寝台ばかりの現実に焦れたシドがその上から降りようとしたとき、丁度扉の出入り口が僅かに開く。
「あ・・・。」
「あ、ああ!目が覚めたのですね!」
その扉の中に入ってきたのは、様子見に来たうら若き看護婦で、今しがた目が覚めたシドを見て感嘆の声を上げる。
「あ、あの・・・!」
一体自分はどうしたのかと、あれからどれだけ眠っていたのかと、そして兄はどこに行ったのかと、矢継ぎ早に彼女に問う。
「・・・・。」
すると彼女は、にわかに顔を曇らせたが、やがてしばし悩んだ末に重い口を開いた。
「あ・・・・貴方のお兄様は・・・、あの大火事の参考人として・・・・・・・。」
「・・・え!?」
「詳しくは私も判らないのですが・・・、貴方が昏睡した状態の時、三人程いらした警官様と出て行くのを・・・・。」
「何だって・・・!」
そこまで聞いて、シドは段々と思い出した。
自分の手で、あの男を殺めた事。
死ぬつもりで火を放った事。
そして・・・、バドの手で救い上げられて、告げられた言葉も・・・・。
「あ・・・。」
そして悟った。
参考人とは名ばかりで、監獄に捕らわれてしまえばもう残された道はただ一つだけ。
兄は自分の犯した罪を被る為に自ら・・・。
「あ、ちょっと・・・!待ちなさいっ!!」
俯いていた看護婦の傍を、シドは病院着の上に、衣文掛けに掛けられていた自分の着物を羽織り、彼女のとめる声を背中で聞きながら飛び出していったのだった。
「ですから、兄は私の罪を庇っているだけなのです!!」
駆けつけていった大きく聳え立つ監獄の門前で、シドは問答を繰り返すが、対応に応じた門番は険しい顔つきでこう切り返す。
「しかしお前の兄は、全面的に罪を認め、最終的な取調べも済んでいるのだ。これ以上事を荒立てるのならば、貴様もただでは済まさんぞ!」
「それでも構いません!どうか兄を解放して下さい!!」
「えぇい、くどいぞ!それにどの道もう遅いわっ!!」
「!どういうことですか!?」
荒げた声を出す門番の言葉に、シドの顔色が変わる。
「貴様の兄は、殺人と放火の大罪で明日処せられると正式に決定したのだ!それにもうあの焼け跡の現場保存の期間は過ぎて、とっくに取り壊されていて捜査の目処も無く、証拠も何も残っては居らぬ。貴様の兄がやったのだと言う証言以外は何もな!!」
「そんな・・・っ!」
愕然として項垂れたまま、その場に崩れ落ちるシドを門番である警官は冷然として見下ろしていたが、その白い華人から漂い放たれる色香を感じ取り、しばし無言であったが、やがてにやりと何かを思いついたように唇の端を吊り上げた。
「・・・・・そこまで言うならばな、独房に居る兄に会わせてやろうか?」
「え・・・?」
本来ならば、死刑が決定している留置者に会わせること等あるべきことではない。それが例え肉親であろうとも。
顔を上げたシドのその夕日色の瞳の視線に、いよいよもって男の欲望は跳ね上がる。
「そしてその口で聞くがいい。お前の納得する答えをな。」
「・・・本当ですか?」
「あぁ、ただし・・・・。」
そう言いながら、警官の目はギラリと光り、丁度シドの顔の部分にある自分の股間を突き出し指を這わせて、シドの後頭部を押さえつける。
「お前次第だがな。」
「っ・・・!」
そう言う事かと目をはためかせ、そのままギッと、下卑た男の顔を見上げ睨みつける。
つい最近までの自分なら、そんなことは何でもなかった。
だけど今は・・・・。
「どうした?兄に会って真実を聞きたくは無いのか?」
頭上から降ってくる、悪魔の取引に、シドの心の中の天秤はカタンと傾き、観念したようにこくんと頭を縦に振る。
「物分りがいい子だな・・・。ついて来い。」
そして連れて行かれたのは、バドがシドの罪を認めた無人の取調室だった。
がしゃんと錠を下ろされて、机の上に横暴にどっしりと腰を下ろした、警官と言う名の最後の客の開かれた股間に、シドはゆっくりと手をかけて行く。
そして今まで、全て兄を忘れ去る為に身体を開いてきた男達を喜ばせ、狂わせて行った手練れで、名も知らぬ男の欲望を増長させていく。
「ん・・くぅ・・・っ!」
男の溜息とも、吐息とも取れる声が漏れ始めると、おもむろにシドはソレを自らの口に含んでやる。
「うぅぉ・・っ!ぉおっ」
ぬめりとした臭いの先走りの汁が口の中に広がり、吐き気がこみ上げてくるも、一心不乱で男の物を高ぶらせていく。
狭い取調室に、口と性器が擦れる淫らな音がこだまする中、シドはただ一人の彼の人のことを思っていた。
兄上・・・。
兄上・・・・!
叶わない想いだからこそ、こんな生き方を選び、貴方を傷付けても、身体だけでもいいから繋ぎとめたかった。
でも、貴方は想いを受け入れてくれたからこそ、こんな生き方しか出来なかった不甲斐ない自分を庇う羽目になってしまった・・・。
ごめんなさい・・・、兄上・・・・・。
つー・・・と一筋の涙が伝う中、男は目先の快楽に酔いしれたまま、獣の様に低く咆哮しながら、シドの後頭部を押さえつけ、その口内に大量の白濁を放出していった。
「ひ・・ぃっ、ぁああっ!」
「くっ・・・、いい締め付けだぜ・・・。」
口内を蹂躙しただけでは飽き足らずに、男は着物を床に全て脱ぎ捨てさせたシドに、机の上に手を付かせ、自分の方に腰を突き出させ、精を吐き出してもまだ固い自身を内部に突き入れて行く。
潤いも滑走油も何も無く、乾ききったままのシドの秘部は、今まで男を受け入れてきたとは言え、ぎちぎちにきついままだったが、男はその中を無理矢理にこじ開けて行くと言う事実に興奮を覚え、やがて自らの快楽の為だけに腰を使い出した。
「ひぃ・・っ!い・・・あ・・・っ!」
痛みを紛らわせる為に、机に着いた両手のうち片手を自らのソレに添え、指を絡めるシドに男は、へへ・・・と下品な笑いを漏らす。
「気分出てきちゃったのか?・・・っ」
見当違いもいいところな言葉を投げかける男の声を無視し、シドは早く終わらせたい一心で、自分の根元から茎にかけて扱き目を閉じたままで快楽を促進させていく。
あの日に・・、バドへの気持ちに気づいて、彼を想い一人慰めた時と同じように、閉じられた目蓋の裏側には、あの炎の中の兄の顔がくっきりと浮ぶ。
俺も・・・・、お前を愛している・・・。
「あっ・・・はぁ・・・っ!」
反芻される声のまま、彼以外の男に抱かれ、こうして惨めな快楽を貪る自分の喘ぎで、今一瞬だけでもバドの姿を声を聞こえないようにして、シドはひくひくと身体を震わせる。
「うぉ・・・ぉおっ・・・出るっ!・・・出すぞっ・・・!」
シドが快楽を得たことによって、締め付けるだけのそれから、いい具合に包み込む快感に変わった男が、一際激しくシドの腰を掴み上げ最奥部へと突いて行く。
「あぁ・・・っあー・・・・っ!」
あにうえ・・・と、そう言葉に出しそうになる前に、シドは自らの己の手の中に欲望を吐き出したと同時、自分の中で大きくはじけた男のモノから放出される生温かい液で内部を侵食されて行くのを感じていた――。
「シド・・・・。」
暗いばかりの独房で、白い死に装束を着せられたバドは彼の愛しき者の名前を虚空に解き放ちながら、連行される際警官達の目を盗んで摘んできて、ずっと袂に隠していた物を手の中に弄びながら、陰鬱な天井を仰ぎ見ていた。
死に対する恐怖感は無いと言えば嘘になる。
だが、それでもこれをそっと握り締め、そして彼の名を呼べばその恐怖も安らいで行く。
それに、今はシドの想いで満たされている、何も怖れる事は無いと、静かに瞳を閉じたその時だった。
「兄上!」
「え・・・?」
ついに幻聴が聞こえるまで精神を来たしたか・・・、だがやけに現実実を帯びた聞き間違えようの無い声に、バドはそちらを振り返る。
「・・・シ・・・ド・・?」
そこには、付き添われたままだった門番から離れ、悲痛な表情で自分の元に駆け寄ってくる弟の姿が映った。
先ほど“賄賂”を貰っていた彼は、冷たい金属の鉄格子に、両手を掴んで顔を近づけるシドを咎める事無く、“三分までだ”とだけ言い残し、自分はその場から離れていった。
「シド・・・お前どうして・・・。」
「貴方こそ何故っ・・・!?」
そう言いながら、膝をつき、泣き崩れたシドの両手をそっと自分の片手ずつで包み込む。
「泣かないでくれ・・・シド・・・。」
「ならば・・・っ!」
格子を挟んで、同じく膝をついた兄の顔を見ながら、シドは彼に詰め寄った。
「ならば私がやったと、そう言って下さいっ・・・!」
「・・・それは出来ぬ相談だ・・・。」
「何故!?何故貴方が・・・。」
「聞いてくれ、シド・・・。」
涙で濡れたままの顔を見つめたまま、バドは静かに微笑みながらこう告げて行く。
「俺はお前への想いを・・・、忘れる為に、楽になりたいがためだけに、お前をあの男に売り渡した・・・。そしてお前から逃げ出そうとしたんだ・・・。だけどお前は、俺のためにこの手を汚した。俺を愛してると告げてくれた・・・。」
見開かれるシドの左手を取り、先ほど取り出していた小さな小さなそれを、シドの薬指にそっとはめて行く。
「これ・・・。」
バドの手が一旦引かれ、自分の指に添えられたそれを見て、シドは小さく息を呑んだ。
「・・・昔に、お前が作ってくれた物より、ずっと下手くそで小さいけどな・・・。」
それは既に枯れかけていたが、あの丘に咲いていたシロツメクサで編まれていた小さな小さな指輪だった。
「・・・・これが俺のお前への“愛”だ・・・・。」
「・・・っ!」
ぼたぼたととめどなく溢れ出る涙を堪えようと、口元を押さえるシドの手をどかすように促して、再び格子に掛けたその手を優しく包み込み、顔を近づけてそっと囁いた。
「舌・・・出して・・・シド。」
そう言いながら、自分の唇から僅かに舌先を出すバドに倣い、こくんと頷いてそっと赤い舌先を出すと、バドはそこに指先さえも通らぬ格子の間から、自分のそれと触れ合わせた。
伝う涙はそのままで、ぼやける視界に兄だけを映し、バドもまた開かれた瞳のままシドだけを見つめ、舌先だけを静かに絡め合わせていく。
首の角度を変え、互いの存在だけを確かめ合い、刻み付けていくこの“口付け”は、どんなに身体を重ね合わせて来た夜よりも深く、甘く、二人の心を静かに満たしていく。
「シド・・・。」
「・・・バド・・・。」
「お前は、俺だけのものだ・・・。先に待っている・・・。」
「・・・・待っていて下さいませ・・・、必ずすぐに行きますから・・・。」
ガンガンと、外の扉から叩かれる音に、最後の時間が無常に終わりを告げるその間、二人はひそやかな婚礼を交わし、そして新たに誓いを立てていたのだった――。
赤い暗影を宿した空の下、薬指にはめられたシロツメクサの指輪を眺めていた自分の元に、雲の切れ間を割く、僅かな光りを伴いながら、ずっと待ちわびていた彼の人が現れると、シドはそれはそれは嬉しそうに微笑みながら、彼に手を差し伸べた。
“お待たせしました・・・バド・・・。”
そして、自分の手を取るバドの薬指にも、自分が贈られたのと同じ指輪が存在しているのを見て、一瞬目を見開くが、やがてそれは眩いばかりの笑顔に変わる。
“さあ・・・、行こうか・・・。俺達を誰も知らない場所へ・・・。”
“はい・・・、貴方とならどこまででも・・・。”
座ったままのシドの身を起こしあげ、示し合わせたように、二人は互いの顔を見合わせて微笑むと、シドはバドの背中へ、バドはシドの腰に手を回し、ゆっくりと寄り添い歩きだすと同時、彼らの身体は闇の中に音も無く溶け込んで逝った――。
冷たい雨露が降りしきる夜中、あの約束の丘の上にシドは立っていた。
骨まで凍えそうな雨の中、それでも白い花はか細いながらも、それでも密やかに咲き続けていた。
「・・・バド・・・・。」
薬指の指輪を流されないように気を使いながら、シドは掌の中にある、小さくなった兄の骨を見つめ、そしてそれを唇にそっと摘んだ。
そして身に纏った白装束の合わせに挟んだ短刀を取り出して、鞘から刃を取り出して自分の髪から伝う滴に濡れる首筋に当てる。
息を一つ呑み、そのまま動脈を真っ直ぐに勢い良く切り裂いていくと、一瞬で辺りのシロツメクサを真っ赤に染めるが、それはすぐに雨に流されていく。
がくんとその場に膝折れて、そしてうつぶせて倒れこんだシドの身体にはもう何も感じるものは無かった。
雨の冷たさも、流れ行く自分の血も、そして痛みも・・・・。
「あなた、を・・・愛・・・し・・て・・・」
ことり・・・と、咥えていた兄の遺骨が地面に落ちたと同時、シドの意識は途絶え、魂は無事に再会を果たす。
そして現世での役目を終えた、彼のその身体は、やがてひっそりと人知れず腐食し、ゆっくりとその大地に還って行ったという――・・・・。
終
戻ります。
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