高い塔の中で、虚無の眠りの中に堕ちた彼の愛する弟。
何時目覚めるかも判らない、果てしなく続く責め苦の中で、彼はひたすら自分を責め続けている。
しかし仮に目覚めたとしても、弟にそれまでの経緯を語って聞かせることなど出来はしない。
目覚めてほしい。
目覚めてはいけない。
板ばさみの思いを抱えながら、今日も時間は通り過ぎていく。
虚 像 の 果 て の 祈 り
~ラ プ ン ツ ェ ル~
「ぅ・・・。」
それは突然の出来事だった。
何の予兆も前触れも無く。
硬い寝台の上に横たわらせられた“人形”は、僅かに声を漏らし、長い睫毛に縁取られた瞳をゆるゆると開いていく。
こ・・・こは・・・?
数年ぶりに目覚めた彼の身体は、長い間眠りっぱなしだったため、その機能が著しく低下しており通常に、働きだすまでしばらくの時間が必要だった。
なので、彼の視界はひどくくすんでぼやけていたし、頭の中はまるで鉛を突っ込まれたように重く、身体を起こすどころか手の指一本動かす事すらままならなかったのである。
それでも、靄がかかっているものの、瞳は開くことは出来たので、彼はまず自分が何処にいるのかを把握しようと何度も瞬きを繰り返し、所在を確認しようと頭を横に向けた。
重そうな鉄の扉。
曲線状にはめ込まれている、古いレンガの壁。
その扉を挟むように、僅かな感覚をあけて、殺風景な壁の下に置かれているのは、小さな木造のテーブルとタンス。
テーブルの上には、ランプが置かれており、その隣には細長く小さな乳白色の花瓶に、花が一輪生けられている。
それは彼が一番好きだった花だった。
確認を終えた後、彼は今度は逆の方に頭を傾げる。
寝台のすぐ横に椅子が一つ。
そして同じ様なレンガの壁にはめ込まれた窓。
しかしそれは、厚いカーテンに遮られており、どんな形なのかは判らない。
「う・・・。」
ひとしきり現状を確認できた彼は、感覚の麻痺している身体を起こし上げようとする。
上体を起す動作だけでも、長く使われていなかった彼の四肢は、突然脳から下された命令にスムーズに反応する事は出来ず、すぐには動けなかった。
「ん・・・しょ・・・。」
それでもぎしぎしと軋む体をどうにか起こしあげて一息つくと、今度はベッドから足を下ろそうと、身体を窓の方へと反転させる。
ここは一体何処なのか。
何故ここに居るのか。
段々と覚醒する脳で沸きあがってくる様々な疑問。
それを考えようと働き出すまでは、今しばらく時間がかかると判断した彼は、とりあえずは外の景色を見て状況を整理しようと思ったわけである。
着ていた寝巻きの裾から伸びる白い脚は、簡単に折れそうなほど細く華奢で、両脇に付いている手を支える腕も同様だった。
しかし彼自身の身体がそれに見合う大きさだったから、別にそれほど不自然な身体の造りではなかった。
寝台の下に敷かれている、丸く赤い絨毯の上に足を下ろそうとした時だった。
「シド?」
不意に背後から、低い声で自分の名前を呼ばれた彼-シド-は、反射的に振り返った。
何時の間に居たのだろう?
そこには、青年が一人立っていた。
髪は自分と同じ色の森林を淡くしたような緑色が混じった銀髪で、左目を前髪で隠している。
しなやかに伸びている、だが逞しさが伺える身体には、喪に服すかのような黒に統一された衣服を纏っていた。
年の功は、十八~二十歳。
その人物は、シドにとっては見覚えのない者だった。
だれ・・・?
しかし、何故かこの人物に対して懐かしさが胸の中に去来していく。
声を出せないまま、この見知らぬ来訪者に対して、シドは警戒する心を持たずに、ただ黙ってその顔を見つめ続けていた。
「目が・・・目が覚めたんだな・・・。」
持っていた物を取り落とした彼は、そう言いながらシドに駆け寄り、小さなその身体を勢い良く抱き寄せた。
「いた・・・っ!」
鶏がらの様にやせ細った身体がその大きな手で抱き寄せられたシドは、僅かな痛みに声を上げるが、あまりにも温かい彼の熱に包み込まれ、抵抗する事すら出来ずにいた。
それどころか、この心地良く己を包み込んでくれる感覚にはやはり覚えがある。
シドにとっては、数日前のこと。
しかし目の前の彼にとっては、もう数年も前のこと。
「もう・・・、目覚めないと思っていた・・・。」
目覚めない・・・・?
「お前は・・・。」
・・・・。
その時彼が、逡巡したように言葉を飲み込んだことにシドは気づかなかった。
「十二の時に、奇病にかかって・・・、そのまま・・・。」
え・・・。
じゃあ・・・。
「親父も・・・、その後すぐに・・・。」
そんな・・・。
まさか・・・!?
「バ・・・ド・・・兄さん・・・?」
乾いた口から、恐る恐る紡いだ言葉は微かに震えていた。
ついに来てしまったか・・・。
弟の言葉に、バドは頷きながら来るべきがついに来た事に心を波立たせていく。
シドが壊されてから、すでに八年の月日が流れていた。
そして自らの手で父親を殺した時からも・・・。
廃墟同然のこの塔に辿り着いてから、バドは誰も求めることなく、ずっとシドの傍について居た。
それは、自らが犯した罪の贖罪として。
誰よりも近くに居たのに、シドの苦しみに気づいてやれなかった己を恥じて。
しかし弟を置いて、どんどんと成長していくバドに、何時しか懺悔の気持ちとは別な感情が頭をもたげていた。
永遠に目覚めなければ良い。
瞳を開けてしまえば、お前はきっと俺だけの物ではなくなる。
ならばずっとこのまま俺の元にいろ――!!
暗く歪んだ独占欲。
目覚めない哀しみ。
目覚めない安堵感。
シドを大切に想う心。
シドを独占したい心。
相反する気持ちのようで、それ等は同じ自分の心の中にある感情。
何が正しくて間違っているのか。
己の中の建前と本音に惑わされ、答えが見つからない日々を過ごしていた矢先に目覚めたシド。
瞳を開けて上体を起す小さな身体は、あの悪夢の頃のまま。
「シド?」
その声に振り返って俺を見上げるお前の表情は、まるで知らない人間を見つめる眼差し。
その視線を振り切るように、細い身体をきつく抱きしめる。
痛さに声を上げようとも、構うことなく力を籠めていく。
「目が・・・覚めたんだな・・・。」
目覚めてしまったんだな・・・シド・・・。
「もう・・・、目覚めないかと思っていた・・・。」
抱きしめる手が震えだす。
「お前は・・・。」
・・・・
俺はここで言葉を切った。
八年ぶりに目が覚めて、混乱している弟に対し、昏睡していた理由を、真実を話せと言うのか?
そんな事をしたら、シドは今度こそ壊れてしまうだろう。
だから俺は
嘘を、吐いた。
奇病にかかり、お前は眠りに落ちただけだが、父親はそれに掛かり死んだと。
「バ・・・ド・・・兄さん・・・?」
再会して初めて聞いた彼の声は、あの頃のままの音だった。
偽善者め。
シドが眠っている間、お前は何を考えていた?
父を殺した事だって、お前はシドのためだと言っているが、本当は己の罪を逃れたいから隠蔽しているだけに過ぎない。
笑わせるな――!
お前こそ、あの男に勝るとも劣らぬ、醜い獣だ――!!
俺の中で糾弾の声を張り上げる俺。
ああ・・・。
確かにそうだろうよ。
だけど俺は、あの男を葬った事を後悔などしていない。
何とでも言うがいい。
俺はシドの為ならば、どんなことも厭わない。
どんなことであろうとも、シドを守る為なら手段を選ばない――。
八年の歳月を経て、再会した二人。
眠りから覚めた姫は、更に番人を縛りつけ
塔の番人は、更に姫に堕ちていくこととなる。
彼等の前に続く道は、さしずめ崩壊に続く
破滅への獣道であろうか――・・・。
戻ります。
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