冥恋-5-



轟々と唸る雪の声は、今は絶望にささくれ立ち、荒れ狂う心を鎮めてくれるかのような安らぎの子守唄のようだった。
何処までも続く果ての無い純白に見せかけた灰色の粉雪だけのこの世界で、あの夜の時間以上に小さくなった兄をこれ以上凍えさせないように握り締めて歩いて行く。

もう、貴方は来る事が出来ないだろうけども。
約束の場所に行けば、きっと――・・・。

あの日の黄昏時、私を抱きながら歩く彼が抱いていた絶望の大きさが今なら判る気がした。
浅ましく呼吸を息を繋ぐ私を、せめて生かそうと与えてくれた生命を還元してくれた貴方。
だけど弱すぎた私はそれを生かす術も持たなかった・・・、否、貴方の居ないこの現世に居たくなかった。
そして今また・・・。

「にいさん・・・。」
本来ならばもう一度、共に死に逝くことを二人でやり直せることが出来た場所へと歩き続ける。
だけども、この小瓶に眠る兄はもう二度と目の前には表れはしないのだ。

どれだけ私は貴方を苦しめて、そして喪えば気が済むのだろうか――・・・・。
そしてそんなにまで、我等が主神は私達の願いすらも聞き入れる筋合すら無いというのか――・・・・。


捻じ曲がっていく感情、誰を憎めばいいのかも判らないまま、かつてバドが味わった憎しみと絶望に心を喰らい尽されながらも、それでもせめて兄と一緒の世界に逝きたいとそれだけを想いながらシドは、ひざ下にまで埋まるタールの様な雪に足を捕らわれながら、 簡素な部屋着のままで、体温をどんどん奪われて行くのも厭わぬまま、目指す場所に向かって歩き続けていた。



冥 恋 -Ⅴ-



「・・・・?」
何時もと変わらぬ朝日が高く吹き抜けた天窓から降り注ぐ、清々しい空気が満ちた謁見の間で、喪に服す禊ぎの清めを終えて一週間ぶりに見るシドから匂い立つ様な“魔力”を感じたのは、この国の絶対神であり、地上代行者であるヒルダだった。
「ヒルダ様、長らくの不在まことに申し訳ありません・・・。」
「・・・・・・・・。」
恭しく身体を折り跪くこの穏やかな青年から似つかわしくない、覚えがあるがその臭気にも似たおぞましい気配に、ヒルダは言葉を発する事が出来ないまま、オーディーンに選ばれたミザルの神闘士であるこの者をただ凝視するばかりであった。
「ヒルダ様?」
どこか訝しげに、そして畏怖にも似た眼差しで玉座の上にきちりとした姿勢を崩す事無くただただ自分を見つめてくる主君に、さしものシドも少しだけ眉根に皺を寄せながらももう一度その名を呼ぶと、はっと我に帰ったかのように、何時もの通り慈悲深く聖なる巫女に相応しい凛とした表情と慈悲を湛えた眼差しで言葉を返す。
「・・・いいえ、シド。あなたの方こそ辛い日々だったでしょう・・・・。それで・・・。」
あなたの決意は・・・。

胸・・否、この身体の中に直接抉るような、あの聖戦に纏わり付いていたいやらしい波動・・・、それはもう一人の自分が表に現れていたときと同じ臭いが、シドの身体全体に絡みついているのを敏感に感じ取りながらもそれを表に出さないまま、ヒルダはあくまで平静を装ったまま、人知れず埋葬された非業の運命を辿ったかの兄について暗に訊ねる。
「兄・・・、バドの事は・・・。」
垂れていた頭を軽く上げ軽く口ごもるシドに、ヒルダの全身がざわりと悪神が放った闇の羽根がさざめいたかのように粟立つ。
あまりにも不吉な相。
若さゆえに満ち溢れる活気が朽ち萎み、くすんだ生命の色を宿すそれ。
軟禁の様な日々だったとしても、飢えを強制するものでもないその生活と比較しても、そのあまりにも不自然な状況に、ヒルダは辛うじて細かく全身を刻む震えを押さえ込んでいた。
「・・・・・・・・すみません。今は何も・・・・。」
言う必要も無い。
だってもうすぐで終わる事なんだから、悪戯に口を割る必要だって無い。

そう言いながらも、密かに零れる笑みを隠せずにいるシドに、ヒルダはその言い知れぬ悪寒が確信に取って代わっていくのをまざまざと実感した。



最後の日常に舞い戻る時間の流れに今一度身を浸す。
もう大丈夫なのか?と心配してくる親友二人と、お気楽な身分ですねと少しの厭味を含めて突っかかってくる赤毛の秀才の絡みにも、聖戦前と同じ様に表面上は無難に周りの波と合わせる仮面をつけながら、緩やかに流れる時をもどかしく思う。

一分、一時間・・・・、また一時間・・・・・。

ひどく永く感じる、が、確実に過ぎ去っていく時間に、数年に渡りこなして来た、兄のいない・・・そして憎まれていた日常と、この数日間兄の存在が傍らに居て想いを交し合った夜との濃密な違いがくっきりと浮かび上がる。
甘くそれで居て儚い声で想いを囁かれ、実体のない腕で慈しみと優しさを込めて抱きしめられ、そしてその身体で何度と無く揺さ振られ貫かれ絶頂を与えられ・・・。

「――・・・。」
にいさん・・・。
口の中でそっと転がしながら、取り交わした約束の刻を今かと待ちわび、ちらりと周りに気が付かれない様に時間をまた確認する。

あぁ・・・煩い。
どうしてこんな雑音ばかりの世界で、自分を取り繕い、あんな無慈悲な神の天罰を恐れてへつらい、媚びて生きてきたのだろう。
周りで笑いかけられながら、そして触れられるその手、見せる表情、どれもこれも猿芝居もいいところではないか。
――シド、これは今日の会議の・・・。
――シド、これから訓練が・・・・。
――副隊長殿、副官・・・。
がやがやがやがや、ざわざわざわざわ・・・・・。

煩い、うるさい、ウルサイ――――!!


『シド』


軋みだしそうになる胸とずれ落ちそうになった仮の姿を押さえつけたのは、唯一名前を呼び、この身に触れても良い記憶に宿る彼の声を見出して、シドは、はっとこの現世の中の表情を取り繕って今はまだしばらく装う事に成功する。

そうだ・・・。もうここには居なくても良いのだから・・・。
これからはずっと愛し合った彼と一緒に居られるという、夢の様な時の中へ逝く事が出来るのだから・・・。

これが最期になるのならと、喧騒の中へシドは再び舞い戻り、当たり障りの無い笑顔を貼り付けて、緩やかな時の流れへと身を任せ、埋もれていくのを妥協する。



その頃ヒルダは、禊ぎの空間として使用されていた部屋へと向かっていた。

あの気配は、かつて黄金の指輪に取り付かれていた際、自身を心の奥底に縛りつけ、もう一つの狂人格呼び覚ましたのと同等の・・・否、それより色濃い忘れがたい小宇宙。
何故あのような気がまたこの場所に・・・・!?

謁見の間を抜けて回廊を渡り、幾つもの階段を駆け上っていき渡り廊下を渡れば見える離宮は、一般の者、そして例え神闘士だとしても、ヒルダの許しを受けこの場所に導かれた者でなければただの物置としか見えない、結界が張り巡らせられた、 天上に近いワルハラ内で、最も一番天界に近く、死の穢れを清める事を目的とされる異室。
古びた扉のから突き出るノブに手をかけてガチャリと回す。
切り取られた空間には、陰惨とした雰囲気に合わせて必要最低限の生活必需品が置かれており、その奥に下界を見下ろす事はできるが、決して開く事のないはめごろしの曇った窓。
そして、部屋に充満する、嗅ぐに耐えられない、この気配の失せた寂滅とした冷え冷えとした空気に混じる事無くはっきりと浮かび上がる負の波動。
「う・・っ!」
耐え切れず、直接神経に携わってくるようなそれには無駄たと判っていても少しでもこの禍々しさから逃れたいと、ヒルダは本能的に口元を覆いながら、この小宇宙の源を辿って行くと、 もう必要ないとばかりに打ち棄てられた、バドの骨が入っていたかと思われる硝子の小瓶が所在無げに床に転がっている。
「こ・・れは・・っ!?」
確かに詰まっていたはずの遺骨が、全て空になった小瓶を取り上げる事も忘れ、ヒルダは青ざめて戦慄いた。
禁忌とされる反魂の術。
邪神の一滴の血を、塵になった遺骨に滴らせ、呪いを駆けられ、口に含む者の生命を吸って、少しの間蘇ることが出来る甦生の禁術。
それは骨の無くなる限り続ける事とが出来るが、その代償はあまりにも重く、手元の骨が無くなった暁には呪いを駆けられたものの命も途絶え、火葬に伏された死者と同じように自らもまた共に灰と化す・・・・、オーディーンのを崇める神の御子達にとっては最大の冒涜行為とも言われている。

「何故・・・こんな・・・・。」
『おやおや、雌狐が一匹で迷い込んだようだねぇ。』
「!?」
突如背後から聞こえてきた、もう一人の自分の声・・・よりもゾクリとするような毒気のある艶やかな声に弾かれたように振り向くと、そこには黒衣に身を包んで、十の爪を鋭く伸ばし携えていたバドが立っていた。
が、その声からかつて自身を思うがままに操りそしてその惨劇を見せ付けた邪悪の女神、その者だと言うのは全身の感覚が覚えていた。
「あなたは・・アングルボザ・・・・っ!」
『久しぶりだねぇ、ヒルダ。ふはははは。相変わらず腐れ切ったこの国を改善させようともしないで、あのジジイに祈りを捧げる事しか出来ない小娘さん。』
「っ!」
古のラグナロクにて、その実体を滅ぼされ、地下の国と死者の国の道の狭間に封印されたこの女神は、先の聖戦では海王の与えた黄金の指輪に取り憑き、そのままヒルダの闇を引きずり出し、意のままに操った女神。
黄金の指輪を砕かれて、再び地下に舞い戻ったこの女神が、よりによってこんな・・・!
眩暈で揺らめくアイスブルーの視界に映る、アングルボザの器となったバドは虚ろで居ても、ダークオレンジの瞳はどろりとした赤黒い血の色に開かれて鋭い殺気を孕み、その全身から溢れる小宇宙は、アルコルとしての影の頃よりも、暗黒と腐臭に満ちていた。
じりじりと間合いを詰めていくバドに、丸腰のヒルダは後ずさりながらも、彼の中に居る・・かつて自らの身体を乗っ取り、聖戦という名の殺戮を繰り広げた暗黒の女神を睨みつける。
「バドが何故あなたに・・・っ!一体彼に何をしたのです!?」
『ははははっ!相変わらずおぼこなお姫様だねぇ・・・っ!』

キィ・・ィィン!

「くぅっ・・・!」
一瞬だけ聞こえた耳障りな音と共に走った黒い閃光に、ヒルダは間一髪でその身を避けるが、そのすぐ背後にある壁はずたずたに引き裂かれていた。
『ふん、腐っても戦乙女と言う訳か・・・。だけどその清らかでお綺麗な偽善的な思考は、結局はこの子達の中の闇を理解する力は無いって訳?』
「・・っ!」
バドの口を借りて放たれる魔女の問いかけに、ヒルダは答えることが出来ず、悲痛に顔を歪める。
『その口でこの子を影だと貶めたのは、他でもないあんたじゃあないか。』
「それは・・っ!うぐ、ぅっ!?」
『違わないかい?私が乗り移る事ができるのは、本当に闇を持つ者だけ。最もあの人の正妻の面影を宿すあんたに限っては、暇つぶしの他に、単なる嫌がらせと冷やかしだったけど。』
あははははははは!!

その聞き覚えのある耳障りな高笑いを撒き散らしながら、暗黒の爪と牙の必殺技の構えで突撃してきたバドが突如その型を崩し、その腕を素早く伸ばしてヒルダの襟ぐりを掴んだかと思うと、一気にたおやかな首を締上げて、そしてギリギリと渾身の力を込めて宙に吊り上げていく。
「か、はっ・・、っ!」
反射的にその手首に両手をかけて外そうとしても、力の差では敵う事無く、バドの肩掌がますますヒルダの首筋を締上げていく。
『可哀想にさ・・・、この子は生れたときから苦難のしっぱなしさ・・・。くそ下らないろくでなしの取り決めた掟だか何だか知らないルールに従って、物心つかない頃にいらないものとして処分されて、結局助かったものの望みもしなかった弟ちゃんとの再会。
その憎しみをバネにして、元々生真面目で努力して手に入れたものも、結局はもう一人の被害者であるあの子の影としての地位。これに絶望しないで何にすればいいのやら。』
さもおかしそうに語りながらも、強まっていく力と、柔肌に食い込んでいく五指の鋭い刃があてがわれた所からは、ぽつぽつと赤い小さな珠が浮き上がってくる。
酸素が廻って来ず、そして強まっていくその爪の力に意識が飛びそうになるのを堪えながら、ヒルダは片手をそっとバドの手首から外し、気づかれないように少しずつ少しずつ血を流す箇所へと移動させていく。
『そして最後の最期で、可愛い弟ちゃんと涙のご対面を果たしたかと思ったら、目の前であの子は息絶えて、永年の憎しみを懺悔する事も出来ない・・、唯一の償いとして生命を注いだはいいけど、あの弟ちゃんにとっては それは苦しすぎる現実でしかない・・・。どう?ここまで聞いてもこの子達が何を望んで逝ったのか、何を叶えて欲しかったのか判らないのかい?聖女さん。』
「・・・・・・・。」
返事もなくだらりと力の抜けたヒルダを、バドの血の色の瞳が満足そうに吊り上がると、鋭く爪を伸ばしたまま待機していたもう片手を彼女の心臓に狙いを定める。
『さてと・・・、遊びはこれまで・・・、死ね!あの女によく似た、従順なだけが取り得の偽善者が!!』
「だまりなさいっ!」
突如、ぐったりとしたままのヒルダが、力強く瞳を見開いて、一喝した事に驚いたアングルボザだが、次の瞬間その表情は苦痛に歪むものへと変化していった。
『う・・ぐああああぁーっ!』
掬い取った僅かな血・・・即ちオーディーンの加護を一身に受けるヒルダの血液は、邪神の血とは正反対の物でその血に乗せた癒しの小宇宙は闇に住まうもの、そして闇の加護を受けたものには劇薬へと変わりうる。
そのためにアングルボザの器と化したバドの口から発せられる絶叫は、この魔女だけでなくバドの声も混じるものだが、それでもヒルダは容赦はしなかった。
「死しても尚、その魂を辱める邪神よ!二度と蘇る事無くお前を永遠に葬り去る!!」
実体だけでなく、魂のみにしてそれを幽閉するのだけでは甘かったのだ。
ヒルダ自身、闇に秘めた本音を引きずり出され、操られ、意識を手離す事も許されぬままに見せ付けられたあの痛々しい現実。
だからこそ、これ以上この女神の横暴を許すわけにはいかぬと、ヒルダはその血にありったけの小宇宙を乗せて、呪いを断ち切っていく。
『がぁぁあぁあぁぁーーーっ!!』
苦しみの断末魔の絶叫をあげながら、締上げていたそのバドの手が緩んだと同時、青白い灰となり、そこから腕、足、身体を本来のバドの姿・・即ち浄化の炎で清められた骨へと変化させていく。
「・・・御免なさい・・・。」
床に崩れ落ちて項垂れながら、ヒルダは悲痛な瞳から涙を零しながら呪いをかけられてもう元には戻らないバドに向かって詫びるものの、アンルボザの寵愛を受けたその器にはもうバド本来の意識は宿ってはおらず、代わりに虫の息を吐きながらアングルボザの声が消えていく中紡がれていく。
『ふ・・はははは・・・っ、ヒルダ・・・、確かに今回はあんたの・・・勝ちだ・・・!だが』
そこまで言いかけて、赤黒い瞳を訴えるように大きく歪めて見開いたかと思うと、そこで一気にアングルボザ・・そして魅入られてしまっていたバドの身体も消滅していった。
二度とバドとして覚醒もせず、そして言葉も残せないままで・・・。

「・・・!!」
息を吸い込み、白い灰と化したバドの元に駆け寄ろうとしたその時、ふわりとこの場所に入る事の出来るもう一人の人物の小宇宙を感じ取り、ヒルダははっとして背後を振り返る。
「・・シ、ド・・!」
その気配に気づいた時はもう遅く、その部屋の中で起こった惨状の結果を見せ付けられたシドが、何の感慨も浮ばせない虚ろな表情で立ち尽くしていたかと思うと、目の前に居る主君はまるで目に入らないかのようにその脇をするりと通り過ぎて、まるで夢遊病者の様にふらふらと拙い足取りのまま、ただ灰と帰した兄の方へ向かっていった。



「にい、さん・・・?」
歪む視界の中に、頬を伝っていく雫が涙だと気づくものの、それが何故流れてくるのか判らなかった。
だって、すぐそこまで待ちわびた時間が訪れるものだと信じていた。きっと迎えに来ると、そう何度も囁かれて消え失せていくその手の無機質さが、永久に同じ場所で同じ空間でずっと取り合っていられると・・・、確かにそう言っていた筈なのに。
「何で・・・?」
約束して下さいましたよね・・・?
わなわなと震えながら、その現実を受け入れられない、受け入れたくなくても、その白い雪の様な灰は、夜毎想いを込めて触れていた兄そのもので、今もまた想いを込めて触れればきっと現れてくれる。
そう、僅かながら期待を込めて触れて行き、掬い上げる指と指の隙間からは細かい砂の様にただ零れ落ちるばかりで、微笑みながらその手で触れられることも無く、優しく名を読んでくれる声も無く。
「シド・・・、バドは・・・・・。」
ダメージから回復して、そっと立ち上がりながら、へたり込みながら砂遊びをするように、バド・・だった骨を掬っては零れ落ちるそれをまた掬い上げるシドに、手を伸ばすがシドは反射的にその手をふるい落とすように身を捩り払い落とした。
冷静で有能・・誰からも信頼の置ける副官が見せたその反応に、ヒルダは思わず感電したかのようにその手を引っ込めて、胸の前で組むようにもう片手で包み込んだ。
「・・・・嬉しかった・・・、どんな形でも・・・あなたが逢いに来てくれて、想ってくれて・・・、連れて逝ってくれるって言ってくれて・・・・本当に嬉しかった・・・。」
ぱた・・ぱた・・・と、冷たさも何も感じないただの骨の上に、熱のある生者の息遣いがある涙が滴り落ちた。
「あなたがそう言ってくれたから私は・・、わたし、は・・・っ!」
燃え尽きかけた蝋燭の最後の揺らめく炎の様に激昂した声、その時に初めてヒルダの存在に気が付いたかのように振り返るシドの表情は、開かない窓から差し込まれる墜ちかけていく陽の色に禍々しく照らされていた。
「ヒルダ様・・・、答えはこの通りです・・・・。」
転がっていた硝子の小瓶に、さらさらとしたバドの骨がまた再び詰め込まれている。

「もう私達を・・・解放してください・・・・。」
この世界から。
この祖国から。
無慈悲な神から。

力ない両手でぎゅっと握り締められる小瓶と、消え入りそうな声で項垂れるシドの・・・否、この運命の双子達が一番求めていた答えを今初めて聞いたヒルダはもはや何も言えなかった。
地上代行者として、生命を支える祈りを生業としている彼女にとってその願いを聞き入れることはあってはならない事だったが、もうその瞳は先ほどの彼と同じ、赤黒い血の色に染まってしまっている。
そしてその色を拭う事ができるのは、もはやこの世の者の何者でもない。ただ一人だけなのだと・・・。
「・・・・・・・・。」

小さく返事を返した聖巫女と、そして最後に恭しく礼をする罪の双子の片割れを、地平線に沈みかける太陽は何も見ないまま、そして約束の夜がやって来る・・・。



「ずっと・・・、あなたに引っ張っていってもらってばかりでしたものね。」
くすくすと笑うシドの脳裏には、長い時間をかけて歩いていたせいか、胸に巣食う辛さや絶望よりも、短くて儚くも、歩いて来た道の中どんな時間よりも満ち足りた濃密な夜の時間が映し出されていた。
辿り着いた雪原の丘は、二人が終え、甘美な悪夢の始まりの場でもあり、そして果ての場でもあった。
「あなたが連れて逝ってくれるとばかり想っていたから・・・、また取り上げられてしまったんでしょうね・・・。」
寒さでかじかむ指先で、きゅっと小瓶の蓋を開き、その骨がまたいずこへとさらわれない内に、甘美な夢の時間を悪夢にさせないために、シドは六日前に対面したよりも少なくなった兄をその体内へと取り込んでいく。
あの夜の時間の始まりの様に、舌先に乗せた兄の味が、甘く痺れる味ではなくただの無機質なそれに戻ったとしても、身体中に還元されていくバドを、そっと瞳を閉じてうっとりと感じたままのシドの唇の端からは、一筋の紅い線が伝っていく。
雪の白さに麻痺した身体に苦痛も何も感じなくても、ただその体内が満たされていくのだけを感じながら、崩れ落ちてうつ伏せに横たわるシドの顎先から滴り続ける紅い雫はそっとその部分だけを、鮮やかな華を咲かせていく。

――・・・にい、さん・・・。

あの日と同じ様に・・・、声にならない声で兄の名を呼び、目の前に居るバドだけを瞳に焼き付けて、逝ったその時ををやり直すために、シドは下りていく瞳に映るその骨の様な鍍金の純白の雪に、それに映える鮮やかな、黒衣を纏った兄を思い浮かべて意識を澱ませていく。



――ド・・・、シド・・・・。
――・・あ・・。

もう身体どころか指先一本持ち上げる力のないシドの感覚に、ふわりとあの夜毎の時間に触れられ、触れていった温もりが宛がわれていく感覚と、口内に残っている血の匂いに混じり、あの甘い味とそして優しい香がシドをそっと包み込んでいく。
――・・・来て、くれたんだな・・・。約束を守ってくれたんだな・・・。
――・・当たり前です・・・!
瞳を開くと、そこにははっきりとした色素の夕日色の優しい両目の眼差しがあり、まるでゆりかごの様な優しい腕の中に、自分を姫抱きに抱えあげたバドが視界に映っている。
泣き出しそうになるのを堪えその胸に顔をこすり付けるシドを、バドは愛おしそうにその髪に触れるだけの口付けを施しながら、そっと弟の身体を抱き続ける。

互いに何時までそうしている中、耳に響き渡る吹雪の音はやがて静寂へと取って代わり、眩いばかりの白い世界へと化す。
彼方から溢れ出るその光に視界を奪われながらも、二人は互いを抱きしめあいそして見つめあったまま、同じ空間に居て、同じ存在になって、初めて互いを感じあう唇と唇を重ね合わせていく。
言葉にしたくても出来ない想い。
千切られそうな哀しみが、今ようやく埋められていく――・・・。



その場所になぎ倒すような吹雪荒れ狂う中、紅い雫の華の傍らに、真っ白な粉雪の様な白い灰が今しがた降ったようにうず高く積みあがっている。
それを包み込む変わりに、強く吹きつける風は雪と共に、まっさらになり交じり合った双子を、砂塵の様に散らせて逝く。



あたかもそれは、この国以外の何処でもない国へ葬送するかのように遠く遠く、最後に手向けた老神の慈悲の如く――・・・。




BGM:道行き・悪魔のように囁いて(犬神サーカス団:形而上のエロス)




戻ります。