立ち込める暗雲の夜、月も星も重黒く塗り潰された空から降る雨。
漆黒のべとべととしたタールにも似た水滴を頭から被り、水滴がひっきりなしに地面に堕ちて行こうと目尻から顎にかけて長く伸びて重くなった髪の一束を伝って行く。
もう何時からそこに立ち尽くしていたのかすら判らない。
身に纏う服もべたりと肌に張り付き重くなって行くが、寒さは全く感じられず、その代わり例えようの無い興奮が身体を駆け巡っていく。
「は・・はは・・・」
口から漏れたのは乾いた哂い。
高潮しきった気持ちと身体とは裏腹に足元からゾクリとした震えが駆け上っていく。
あっという間に全身を巡っていく震えに侵された両掌を天に向け胸の前にまで掲げると、更に勢いをまして地面にたたきつけられる幾万の細い針の様なそれが、べとりとこびり付く鮮やかな血の色を洗い流していく。
「・・なぁ・・?」
そしてその視線は、その流された血の持ち主のもう一人の自分に落ちて行く。
ぐったりとしてもう動こうともしない、彼。
緩やかに呼吸が遠のいて温もりが段々と失われていく等というやり方は彼をいたずらに苦しめるだけなので、一思いにさくりとその心臓を後ろから抉ってやりそして・・・。
「もう何も憂う事も無いよなぁ・・・・?」
手に持つ真っ赤な塊は、横たわる彼の嘆きの様な涙にも似た雨に塗れてか、まるでルビーの様な光沢を放ち、妖しく夕日色の瞳の中に映されている。
それは既に正気を失った狂者のものか、それとも純粋な子供の様な無邪気なそれか。
「これでもう、何も怯える事など無い・・・・。」
段々と細身だった身体が、冥府からの送り水を孕み重くなっていく様を見下ろしながら、くつくつと笑いながらも、ぽつりとつぶやいた言葉に、例えようの無い哀しみが混じっている事は、当の本人ですらも気が付いていなかった。
raison detre
inexcusablea has been
一体何時からこんな事になったのだろう。
『兄さん・・・。』
お前がまだ、俺にとって可愛い双子の弟である時から?
『バド兄さん・・・。』
引き裂かれていた二十年と言う、途方も無く取り戻せない時間をそれでも必死に手繰り寄せようとする日常で、弟としてのお前が、花が綻ぶような可憐で優美な笑顔で俺を呼び傍らに居るのが当たり前になるようにと、何を引き換えにしても構わないと言わんばかりにずっと寄り添っている時から、既に・・・。
一度壊れてしまったものの辿る路は二つに一つ。
修繕可能ならば、その手で壊した者の手によって再生されてまた役目を果たし続けるものと。
そうでなければそのまま朽ち果てて逝って、誰からも忘れ去られるか――・・・。
俺はそのどちらにも当てはまり、そのどちらの路も辿っていたことになるのだろう。
憎しみに凝り固まった汚泥で塗れていた俺を、お前はそばに居る事・・即ち“赦す”事によってその手で拾い上げて、壊れかけていた俺を磨き上げるかの如く慈しんでくれていた。
それは兄弟としてのそれから、人としてのそれへと移り変わっても変わること・・いや、更に深く濃くなって行き、それで俺は救われるんだ、一緒に歩いて生く事が出来るのだとお前はあくまでも信じていたのだろう。
だけど・・・、俺はそうじゃなかった。
もうこの頃には、脳髄からの不穏な声が、はっきりと音を成して聞こえる様になっていた。
赦されはしない。
赦される訳など無い。
一度死んだ位で、弟に赦されると本気で思っているのか?
あれだけ弟を憎み、恨み、あまつさえ殺そうとしていたお前がたかがそんな事位で。
その証拠にお前はほら、あんなに綺麗だった弟をこんなにまで穢して朽ちさせていくしか出来ないだろう?
『に・・さんっ・・!あぁっ、あ・・っ』
誰がこんなになるまで彼を調教した?
『もっと・・っ、もっ・・とぉっ・・・!』
自分だけを見つめて、自分だけに身体を開かせて、自分無しでは生きていけぬように。
『深く・・、き、てぇっ!』
愛だの想いだの説いたところで、お前のしたことはただの肉欲処理の為に弟をそう仕立て上げただけだ。
『兄、さん・・・・。』
するりと背中に絡ませてくる両腕は、まるで蛇が這うように。
『・・・・・・愛して、います・・っ!』
声が囁かれるたびにじわりと蝕んでくるのは、お前が磨いて取り除いてくれていた筈の、腐食した過去。
本当にお前が全てを赦されたのならば、何故閉じた筈の過去が蓋を食い破って、どろりと侵食する?
お前が本当に全てにおいて赦される存在ならば、何故愛おしい者の詞や熱をそうでしか感じ取れない?
『にいさん・・・。』
そして何故・・・、
否定できない――?
『どうし、て・・・・。』
それ即ち、お前にも判っていたはずの事だからさ――・・・。
「・・・・始めからこうすれば良かったんだよ・・・。」
叩きつけられる雨に晒されている二人に沁み込んで行くは、餞とは程遠い冒涜の冷たさ。
「最初から赦されない存在が、何をどう償って赦しを乞えるんだよ・・・。」
最初から壊れた性の人間がどうやって再生の路を辿れる。
その香りを楽しむかのように、手に持つシド身体と魂を媒介していた物に顔を近づけて、唇を寄せて一口齧ると得も言わぬ甘い味が口内を満たす。
「もうどうだって良い・・・。」
しかしその甘美な味も一瞬の事で、後はただ土に、塵に帰る為に、そこに転がるシドの骸と同じようにその紅色を保つ事が出来ないまま静かに腐っていくであろう。
「どうだって良いんだ・・・。」
虚ろう瞳から静かに流れ出す無意識のうちの涙は、既に雨水に混じりその熱さすらも奪われて。
それでも――・・・。
赦されなくても壊れていても、過去をすり替えてでもシドを想える強さがあれば・・・。
愛していると、抱き寄せられたその腕の温もりを素直に感じられる程に、過去を振り払える程の強さがあれば――・・・。
自分の手にかかって横たわる弟の傍らに、がくんと崩落ちて項垂れるバドの耳には内包からの声はおろか、あまつさえ雨音も段々と遠ざかり、全てが無音に帰して逝った。
壊れ果てて赦されざる者が唯一辿れる残された・・・即ち“破滅”へと向かうべく。
戻ります。
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