湖路の扉



気の抜けるほど青い空から零れ落ちる陽光を照り返す水面は、嘗て聖戦の際に、その凍りついた水底から二つの甲が出現したと言う事などすっかり忘れたように穏やかなもので。
いや、もしかしたらあれは己一人が見ていた夢想だったのかもしれないと思い違うほど、ここは静か過ぎる空気に包まれている。
季節はもう春も終わり、この国では最も短いとされる命の栄が煌めく白夜の頃へと移り変わろうとしている。
この国の人々は、ずっと平穏に続いていくアスガルドを愛し、厳しい自然に訪れるほんの一瞬の生命溢れる季節を心待ちにしているが、彼の想う人の命はもう二度と輝く事は無い事は誰も知る由も無かった――・・・。


湖 路 の 扉


「シド・・・。」
この湖は嘗ての近衛隊副官・ミザルのシドの双子の兄、影の神闘士であったアルコルのバドの誰も寄せ付ける事のない聖域でもあり墓地であった。
かつてアスガルドを襲った悲劇の中、辛くも生き伸びるという十字架を背負った一人であるこの青年は、同じように傷を共用する聖巫女とその妹姫の頼みをあえて絶ち、ひっそりとした以前への生活に戻って行った。
その理由は、彼にしか判らない葛藤がそうさせたものだとしか言いようが無く、しばらくは色んな憶測が飛んでいたらしいが、平和になった今、誰もそのことについては思い出しもしなくなっていった。

辺に佇み、水面に自分の顔を映しながら、段々と脳裏から薄らいでいく記憶の中の弟を忘れ無いようにと、自分の罪の戒めを込めてたった一人の名を呼ぶ。
水面に映るもう一人の自分がその声に答えるはずはないことは十二分に判っていても、それでも呼ばずにはいられない程、バドは弟を求めていた。
それは近親者としては当然の想いであるのか、罪悪感から来る独りよがりの感情なのか、第三者が軽々しく決め付けられる程に薄っぺらい物ではない。
「シド・・・・・・。」
たった一言、その名前に込められる意味はバドにとっては、大切な聖なる鍵の様でもあり、また心を抉る凶器の呪文の様でもあり、それでもその名前こそが今の彼にとって全てだった。
そっとバドはそこに映る、記憶の中にいるシドに重ねた己に触れようと手を伸ばしていくが、冷やりとした柔らかい湖面が僅かに揺れ、ゆったりとした波紋が広がって行くと、それがまるで閉ざしていたあの日の情景に繋がるかの様に、弟と交わした最初で最後の邂逅の時を皮切りに、濁流の様に過去がバドの思考に溢れ出した。

「・・・お前の存在さえ知らなければ・・・・。」
それは、あの日にお前と言う光を知ってしまってから幾度と無く思った事だった。
“憎しみ”と言う炎をこの身に宿し、それだけを抱えて、お前を憎むだけで生きていけると想っていた。
修行で痛む身体も、たった一つ抱いた野望の前では何とも無かった。

でも今は・・・。
冷たい床に倒れ伏し、その命を終わらせたお前。
最初で最後の俺を兄と呼んだあの声が、以前までとは全く違った温かさと哀しみの熱が、この身体に刻み込まれている。
それは何時か止まるであろう心臓の鼓動と同調しながら、身体中を駆け巡り脳内の最も深い部分にまで内包するようにと・・・。

「お前を憎んだままで居られたら・・・。」
こんなにまでの悔恨に引きずられる事等無く、そしてこれほどにまでお前を想う事等無かった。
「その方が良かったのかな・・・?」
心が通ったと思ったあの一瞬だけの真実だけで生きていけたらとどれだけ願っていても、流れていく無常な季節の巡りはその記憶さえ褪せさせていくのだから。
「もう何も見たくないよ・・・・、シド・・・。」
お前の姿も見えない世界を一人歩いていくこと、お前のあの声を忘れてしまっても意地汚く生に執着する自分も何も・・・・。
意識が身体から離れたような感覚を人事の様に感じながら、バドのつま先は地面を離れ、視界は水鏡に浮ぶ自分が近づいてくる。
それはあたかも、双子の弟のシドが微笑みながら手を伸ばして行く様に・・・。


とぽん・・・と言う音が静かな景色の中に溶け込んだ一瞬後、聖域は主を無くし再び静寂を取り戻していく。
ゆらゆらと揺らめく湖の水底からは、こぽこぽと水泡が粟立っていたが、それもやがてゆっくりと収まっていく。



後に残るは、青い空に被さってきた白い雲の切れ間から刺す太陽の光が、揺らぐ湖面に屈折させながら反射して照り返すだけで、あたかもそれは、聖書に記されていた神の元に召される為の道標の様な情景だけがそこにあるのみだった。

その日の光の階段を伝って彼等が無事に再会を果たせたのか、それは彼らのみしか知る権利の無い事であろう――・・・・。



戻ります。