アル日ハハノ日

誰も人は誰かの代わりになどなれはしない。
この世に生れたからには、個々一人としての生命を授かって、個々各々のこの現世での使命を享け賜ってそして生きるのだ。 生きていくには幸せなことばかりが降り注ぐわけではない。
辛い事に出会い、汚く醜い感情を自身が持つことに嫌悪し他人に差し向けられ傷付き、それでも必死に生きていく。
その中で人はゆっくりとだが成長して行き、長く長い道のりの中で何がしかの幸せを見つけ、それを愛でて糧にしながら生きて行くのだと・・・・、母は幼い私の髪を撫でながらそう、御伽噺の様に夜毎聞かせてくれた。

『だからシド・・・・、忘れないでね。あなたはあなた自身と言う存在なの。あなたに代われる人間はどこにも居ないのよ?』

お父様にとっても、私にとっても、そして・・・。

・・・・この手に温もりを感じられずに、逝ってしまったあの子にとっても・・・・。

『・・・母様・・・・?』
その後の言葉は一体何と言ったのか聞き取れなかったが、母の一瞬見えた哀しげな顔に私は口を噤んだ。
その後柔らかく微笑みながら、さ、シド・・もうお休みなさいな・・・と、優しくあやすその慈しむ手からは嘘偽りの無い、紛れも無く私を愛してくれていたと言う安堵感が満ち足りていた。

代わりになれないのだと、大切な存在だと、そう言葉をかけられる相手が己の出生の秘密を知ってしまった私には一生現れることは無いと思っていた。
血を分けた双子の兄を踏みにじってまで生かされて、そこまでこの世に固執する私なぞが誰に愛されると言うのか頑なに信じて疑わなかった。
ましてや、殺されても仕方がない程に憎まれていた、あの十を数えた日からずっとずっと・・・、否、生れたときからきっと一番求めに求めていた双子の兄から、その愛情の掌を差し伸べられることなどと思っても見なかった。




ア ル 日 ハ ハ ノ 日




微かに顔を上気させて、時折息苦しそうに息を吐きながら、かき上げた前髪を伸縮自在のヘアバンドで止めて、心配そうに俯きながらその表情を見つめる彼と同じ、形の良い額には濡れたタオルが置かれている。
季節の変わり目ようやく慣れて来た仕事に気が抜けて、蓄積された疲労が暴発したのか、幼少の頃から野山を駆け巡っていたと言う兄が体調を崩していたことに気がついたのは、シドが勤務から戻って来てからだった。
ぐったりとソファの上で四肢を伸ばしきって転寝をしているバドを、シドが風邪を引きますよと揺り起こした時に、普段よりも高い熱に気がついて慌てて兄の身体を四苦八苦して抱き起こして、その肩にバドの腕を回し、まだ二人寝には狭いベッドの上に運んだのである。
とりあえずは医務室から風邪薬、洗面器に冷たい水を張って熱い額の上にそれを乗せながら、目覚めた時に何か腹に入れられるものをと厨房へと伝達しに行こうとベッドサイドに寄せた椅子の上から立ち上がろうとした時、ぐいと手を引っ張られる。
ぐいっと引っ張られる常温よりも高い兄の手。こんな時だからこそとそれを振りほどくことを良しとせずにシドは姿勢を元に正し、その無骨な手を、細くて綺麗な指と少し冷えた両手で包み込んでいく。
「にいさ・・」
「母さん・・・」
万感の想いを込めて兄を呼びかけたその声に答えるようにバドが発した言葉。
「・・・・・」
自分ではなく母を呼んだその低い声に、シドは自分の心が軋んでいくのを感じた。
もう一度、その呼称を呼ぼうとしても、開きかけた唇からは、飽く事無く彼を兄と呼ぶことを拒絶するかのように声が出てこない。
押し黙るシドの脳裏に思えば兄は生まれてすぐに母の手に抱かれること無いまま自分と引き離されたことが過ぎり、そして育ててくれた養父はすでにバドが引き取られた際には男やもめだったと彼自身から聞かされていたことを思い浮かべる。
母親の愛情がどんなものだか知ることの無いままで、そして二人揃って一緒に居られても公に出来る事無い兄の立場。
だからこうして無意識とは言え母を呼んだのは、弱ってしまっているからこそのことで、別段に気に咎めることではない。
無いのだが・・・・。

「・・・・・バ、ド・・・。」
“シド・・・・。”
かつて母・シギュンが自分の名を慈しんでくれたようにそっと意外にも柔らかい髪を撫でながら、それを真似るようにシドは兄の名を呼びながらどうしようもなく切なくなった。

代わりになれるものなどいないと、その言葉をようやく信じられるようになったのは、長い間憎まれ続けてきたこの兄が、自分を救おうとしてくれたこと、そしてこうして蘇って一緒に居てくれる様になり、常にそばに居てくれて自分だけを見てくれたからこそだ。
そして次第に抱いていった兄弟として逸れていってしまった愛情を臆する事無く受け止めてくれて、触れて触れられてから更にその言葉は真実味を帯びていった。

それなのに・・・・・。

どうしてと、理不尽だと判っている思いを抱き始めるシドの手にトクトクと伝わってくる愛する人の体温と鼓動。
馬鹿げた嫉妬心に身を焦され始めてそれが自己嫌悪になってシドの瞳を潤ませたその時、バドの身体が一瞬ぴくんと身じろぐと、ゆるゆるとした動きで大きくて無骨な安心できるその手がシドの頬を辿っていく。
「っ・・・」
「ぁ、れ・・・・、シド?」
寝起き特有の掠れた声で弟の名を呼ぶバドの瞳に映るのは、今にも泣き出しそうな弟の顔だった。
「あれ・・?俺・・・。」
寝ぼけたようにシドの顔を見つめていたが、ずっと自分の髪を撫でてくれた心地良い温もりが他でも無い弟の物だと判ると、安堵したように息を吐いた。
「・・・ずっと居てくれたのか?」
そう言って笑いかけてくる兄に、シドは一瞬だけ見せていた哀しげな表情をしまいこんで、えぇとふわりとバドに笑いかける。かつての母が見せたどこか憂いを帯びた柔らかいそれを。
「そうか・・・、ゴメンな・・・。」
何がですか?と思わず聞き返しそうになった。
体調を崩したままでそのまま転寝を続けた事か、それとも先ほどの寝言か。
それを口には勿論表情に出さないようにして、シドはん?と言うように小首を傾げ、上半身を起こした兄をじっと見つめた。
「心配かけたことと・・・・・、それと・・・・・・・。」
ばつの悪そうに俯きながらも、少し関節の痛む両腕を伸ばしてさらりと伸ばした後ろ髪に触れながら、首の後ろに手を回し力いっぱいに抱き寄せる。
「勘違いしちまった事両方。」
「っ・・・!」
自分の放った言葉に気がついていたのか?それとも双子ゆえに伝わる意思の送達かと、シドは思わずその腕の中で固まった。
腕の中で硬直する弟の変化を見て、やはり図星だったか;と思いながら、でも偽りなき気持ちを彼に伝えなければならぬと、バドはその柔らかい耳たぶに、下心なしに唇を寄せていく。
「・・・安心、したんだ・・・。」
今までずっと一人だったから。
耳元で囁かれるその声に、先ほどまで抱えていた棘はゆっくりと引き抜かれていく。

身体を壊そうと何だろうと、生きていくためには必死だった頃は仕事へ行く養父を送り出して一人で管理してきた。
そしてそれが当たり前だとずっと思っていて、自然に治るものだと移動するのも億劫だったのでそのままソファにうつらうつらとしていた。
浅く落ちて行った睡りの中で、不意に抱え起こされた感覚。
目を開ける力も無いまま、閉じた視界で感じたその温もりと心地良さは、今までずっと知ることの無いものだった。
無償に注がれる安らぎと温かさに満ちたそれはまるで、二十年間感じた事の無い母の愛の様だと・・・。





「・・・・・・・・・・・・・私は、男ですよ・・・・。」
「そんなの判ってるって。」
逡巡した後に口について出たシドの言葉に、バドは可愛くて仕方が無いといった様子で声を押し殺して笑う。
後頭部に埋められるその指が心地良くシドの髪を梳きながらも、少しだけ熱が下がった顔をその胸に埋めてくるバドはまるで幼子のようで。
「だけど俺も男で、母性を感じ取りたく思うって事だろう?」
お前の中にある、母親の様に深く穏やかでなその愛情に・・・と、胸元をまさぐるように呟かれる兄のその比喩に、シドはくすぐったさとそして沸々と突き上げてくる柔らかい感覚に、少しずつだが顔を赤らめていく。
「時々だけどこうして甘えさせてくれるか?」
シド・・・と、大猫が喉を鳴らしながら擦り寄るようにして、胸に頬をこすりつけてくる兄の殺し文句にシドは例えようの無い愛しさに鼓動が鳴って行くのを自覚しながら、はい・・・と呟きながらそっと兄を、温もりを湛えるその腕で抱き込んでいった。






『私にとって、シド・・あなたも、あなたのお兄ちゃんのバドも・・・掛け替えの無い私の子なの・・・・。』

寝静まった我が子のその愛らしい寝息と寝顔を眺めながらシギュンはそっと呟いた。
夜毎すおとぎ話の続きはシドには聞かれないように・・それでも何時かその意味が小さな我が子に届くように。
『あの子にもし出会えたのなら・・・、シド・・・・・』


あの子を愛してちょうだいね・・・・?
私が愛してあげられなかった分も、あの人が与えて上げられなかった温もりの分も、あなたが愛して慈しんで あげて・・・・・ね。




戻ります。