もう一つの温かな腕

「エーヴェル・・・。」
冬の寒い夜長、ひゅうひゅうと頑丈な窓の外で吹き荒ぶ雪の音が、年老いた身体には年々辛くなって来て・・・特に今の季節は、目出度く思う日が間近に迫っているのにどうしても雪の闇の中に消えたもう一人のあの子を思い出しやりきれない思いに浸りながらも、徐々に近づいてきた睡魔に身を任せようとした時、控えめなノックと幼い声が聞こえたことで、慌てて横たえていた体を起こし上げて、ショールを肩からかけるといそいそと部屋の扉へ向かいドアを開けると、そこに立つのは、手元に抱いたもう一人の光に残された幼子が立っていた。
「まぁまぁ、どうしましたか?シド坊ちゃま。」
「御免なさい・・・こんな遅くに・・・。」
そこに立っているのは、この家の世継ぎの君であるシドが、しょぼんとした様子で、日の落ちたアスガルドの冬の寒さに耐えられる造りのパジャマの胸元を無意識のうちにぎゅっと小さな両手で掴みながら、おずおずとした様子で世話係で女中頭であるエーヴェルをじっと見上げると、彼女は心配そうな顔からやがて柔らかく皺を刻み、目尻を下げて笑いかける。
「あらあら・・・また眠れなくなってしまいましたか?」
「う、ん・・。」
気まずそうにしながらも、こくんと頷くシドに、血の繋がりなど無くてもこの手で産まれた際に抱上げた頃から孫の様に可愛く思うエーヴェルはその小さな肩を抱いて中へ入る様に促すと、ようやくシドもほっと安堵したような顔を見せてその中へと入り込む。

火が消えた暖炉に薪をくべるよりも、彼女が手ずから淹れてくれるお茶の手つきを見て、どうしたらそういう風に淹れられるのかと聞きながら、淹れ終わった容器を、飲むのは自分だからと小さな簡易テーブルの上に運ぶシドを微笑みを湛えながら見守りつつも、今年もまたこの時期がやって来たのかと内心溜息を吐くエーヴェル。

シドの真夜中の訪問が始まったのは、彼“等”が生まれて一年後の事。
火のついたように泣き止まない我が子をほとほと困り顔で抱きかかえてきた彼の母親であるシギュンを見て、これはどうした事だろうとうろたえはしたが、エーヴェルがその腕に抱きあやしだすと、途端、見る見るうちに癇の虫は収まったのか、シドはその腕の中ですやすやと寝息を立て始めた。
しかしシギュンがその腕に抱きだすと再び火のついたように泣き喚き、結局その日は彼女の部屋に簡易ベビーベッドを設置してそこへ寝かしつけたが、それから約一週間に渡る夜、母の腕に抱かれる事を拒むように、シドは悲痛な声で泣き続けた。
それが特にピークに達したのは、2月の8日の夜で、それがぴたりと止んだのは、2月9日以降の事・・・。
それが一体何を意味するのか、父と母・・・そして出産の立会いの際、忌み事を取り上げたエーヴェルだけが朧気に悟ったが、まだ意志のはっきり持てない赤子のすることに必然を見出す事はできず、一年が経つ頃にはその記憶は忘れかけていたが、二年・・・三年・・・と同じ頃が廻るたびに、シドは父母の傍にいることを厭う様に泣きじゃくり、そしてその度にエーヴェルが鎮めると言うサイクルを繰り返して来た。
公に出来ない事の為だが、幾らなんでも放っておく訳にも行かずに、一度医師にかかった事もある。
その時の医師の見立ては、先天的なストレス・・・普段は押さえつけられている精神的傷痕が、何かしら時期が来るたびにうずうずと疼きだしてそれが暴発しているのだろうという事。
それを押さえるためにはそのストレスの元を取り除くこと・・・至極当然な処方だがそれは不可能である事である事も明快だった。
父母の傍に居たくないように、ひっきりなしに泣きじゃくるシド・・・、守る事のできなかったもう一人の我が子・・双子の兄を返して欲しいと訴えるような悲痛な声。
血の繋がりが齎す絆は、得てして、望まない臭いも嗅ぎ取る場合もあることも然り、その場に居ながらも血の繋がらないエーヴェルにはその叱責を向けなかったのは、不幸中の幸いではあったが、彼女にとって一抹の淋しさも抱かせたのもまた事実だった。

段々と物心が付く頃になると、両親とも部屋も分けられ一人寝の習慣がついたシドだが、泣き喚く代わりにどうしよう無い寝苦しさに襲われるのか、こうして夜を忍んでやって来る。
これが最善の方法だとは思えなかったが、だからといって最善の方法を取ってしまえば、目の前のこの子はもっと苦しむ事になるのだと、エーヴェルは淹れたての湯気の立つ茶を涙を堪えるように飲下した。
「本当にゴメンなさい・・・。」
そしてシドも自分自身ではどうしようも出来ないこの習性に巻き込んでしまっている負い目から、向かい合って座るエーヴェルの顔を見ずに縮こまる。
「何を謝りになりますか。私と坊ちゃんの間柄でしょう!」
「でも・・・。」
もうあと1週間もしないうちに十を刻むのに、ばあや離れしない自分が恥かしくて、ますます俯くシドにエーヴェルは、よっこらせと立ち上がると、向かいから周ってシドが座る床へと腰を下ろし、その柔らかい若木の色が混じる銀の髪を優しく梳いていく。
「良いんですよ・・・坊ちゃまはもっと甘えても構いません。」
名門の家に生まれた時から課せられた枷・・・、忙しい両親に甘える事もせず、厳しい教育を施されても泣き言を言わず・・・そして生まれながらに背負わされた業をこれからもその身に背負っていくのだと言うことを考えると、甘えたいと訴えるこの子を甘えさせてやる他に何が出来るというのだろう。

もしもなど、望めば望むほどに虚しくなるが望まずにはいられない。

もしも普通の家に生まれていたならば、この子の父も母も・・・そして自分も、この子と一緒にあの子を育てたかった。
名前を与えても声に出してその字を呼ぶことの出来なかった、シドと対の名を持つあの子を、こんなにも恋しがって泣いているこの子に逢わせてやりたいとずっと切に願っていた。

そしてそれはこれからも、この子を見るたびに変わらずに・・・。


「エー・・。」
ぎゅっと寒くないように抱かれるその温かな皺の刻まれている手。
しかしその手は微かに震えており、思わず彼女を見上げようとしたシドの頬に、ぽたりと一粒温かな雫が滴り落ちる。



どこか痛いの?大丈夫なの?と心配する愛し子の、叶えてやれない望みの変わりに、せめてこの子が生まれた日・・・そしてあの子が生まれた日まで祝おうと、しゃにむにシドを抱きしめながら昨年よりも強く心に刻むエーヴェルであった。



使用音楽:揺篭の木/陰陽座