その魂を鎮める為に、せめてあなたよ微笑んで。
















後ろを振り向くような人生(みち)を歩くなと、口幅ったくあの子に諭した。
人として恥ずべき生き様をするなと、己が見本になるべくあの子に接した。

だが、今、この落ちぶれた姿をあの子が見れば・・・きっと失望するだろう。




ごつごつとした岩の人一人がようやく通れるような獣道をシドは、ひたひたと歩いていた。

何も履かずにいる白い素足は所々擦り切れて血が滲み、むき出しになった岩の道に痛々しく血が点々と付着している。
後ろを振り向けど振り向けど、辿ってきた道筋、そしてこの場所へと迷い込んだ入り口は小さくどころか一点の欠片も見えず、心のどこかで観念していた筈の気持ちが今新たに静かに絶望へと澱んでいく。
血の気の失せた唇が、小さく動き言霊を紡ごうとするが、それは既に魂の入らぬただの戯言にしかならぬが、それでも逡巡して彼の唇は息の根だけでその字を呼ぶ。
「・・・バ、ド・・・。」
小さく噛み締めるように紡いだ名前。
因習によって引き裂かれ、その人生を狂わせてしまった、たった一人の双子の兄の字。
全ては自分が招いた出来事。
10の頃、偶然出会ってしまった駆け引きから始まり、その後ずっと自分を憎み、そしてたった今、自分が果てたアスガルドを巻き込んだ聖戦において、その影として付き従わせてしまったこと。
憎しみの代価はこんな自分の命しかないと、最期に聖闘士を道連れにその誉れを差し出そうとした瞬間をまざまざと思い出しては困惑する。

何故彼は私を討たなかった。
あれだけ憎しみに満ちた視線と小宇宙をぶつけて、何故今際の最中に躊躇いその拳を下ろしたのか。
最期に吐いた溜息とその表情が物語る事は――・・・?

一思いに貫くとばかり思っていた拳が虚空に下りたことで、シドの心に芽生えた疑問は未練と言う茂みになってあっという間に葉を広げ、死出の道行きをこうして途絶えさせる。
『・・・?』
止まってはのろのろと歩きまた足を止めるシドの前に、突き出された岩に腰を掛けて俯いた男が突如現れ、一瞬兄への思考が途切れ、意識はそちらへと向けられる。
『・・・ここへ、来なすったか・・・。』
すっぽりとフードを被りその体型ははっきりとはしなかったが、しかし聞こえてきた声は太くハッキリした声で、何故かひどく懐かしい感じがした。
『・・・あなたは・・・?』
少しずつだが前へ前へと進んで来たシドの目の前に座る男の前に聳え立つのは険しい岩の壁。そしてその道は男の前で途絶えている。
『見ての通り、ここは行き止まりだ。迷いの持つ者はここから先には進めない。・・・わしもここに彷徨いもう幾年経ったか・・・思い出すことすらままならぬ。』
ぶるぶると震えながら持ち上げられる両手は筋張って逞しく、かの様なひ弱さなどとは無縁に思えたが、迷いすぎて疲れ果てた無気力がその男の周囲を取り巻いている。
『迷い惑う内に・・・ついにはこの目は盲いてしまい・・・ここに留まるを余儀なくされた・・・。』
『・・・何が、それほどあなたを迷わせているのですか・・・?』
つい・・とシドはその男の前に傅き、そっとその掌を取る。
どうせ他に行く場所など無いのだ。例えば現世が終焉を迎えるその日までこの男の話に付き合うのも悪くは無い。
それに・・・この掌は死者などとは信じられないほど温かく、伝う熱はひどく安心する。
現世にて本能的にこれほど安らげたのはもうどれほど昔の事だっただろう・・・そう思い返すシドの耳に、彼の昔話が滑らかに流れてくる。
『女房に先立たれてから、食うため、寝るためにだけ人生を食いつぶすような男に雪ざらしの中、掛け替えの無い宝物が授けられた。男はその宝物を不器用な愛情を注いでいたつもりだった・・・。』
シドに握られる両手は一端は震えは止まっていたが、またそれはぶるぶると震え始める。
『だが、男は一瞬の過ちを犯した。・・・あの子を思うが故に言い出せなかった事実があの子を追い詰めて・・・そしてそれが今生の別れになってしまった。』
『・・・。』
無言のままシドは俯いた。
思うが故に自分がバドにした仕打ち。それ故に彼は果てない憎しみに追い詰められた・・・そのことが男の語る話に重なってシドはきゅぅ・・と下唇を噛み締める。
『閉ざされた心のあの子の笑顔をもう見ることは無かった・・・。今は何を言ってもあの子を傷つけるだけだと・・・もっと時間が経ってから真実を話そうと・・・。そればかりを思う内、男はどこにも行けなくなっていた・・・。』
『・・・。』
『女々しく後ろを振り向くな、強くあれと・・・あの子に言っていたのに、皮肉な事に今は自分が女々しくこの場所へとこびり付いている・・・。』

『ちがう・・・。それは違う・・・!』
小さく頭を横に振り、シドはその掌の震えを少しでも癒すように押さえるように更にぎゅっと包み込む。
『あなたは何も悪くなんてない!そんなにまでその子を思う貴方の心が女々しい筈なんて無い!!』
瞳から後から後から溢れる涙。
行きずりの男の話と更に被さる兄への思慕。
同じ無意識であってもあまりにも違いすぎるすれ違いに、そして自分の犯したあまりにも無神経な思い違いに苛まされ、声を押し殺してその男の膝にもたれかかるようにして嗚咽する。
そんなシドの髪を、するりとその両手から抜け出した男の手が不意に、優しく梳き始めた。
『ありがとうよ・・・。こんな見も知らぬ老いぼれの語らいに付き合って涕してくれるなぞ・・・。』





そこから幾刻経ったか、はたまたほんの数秒後の事か。
声を殺しても、泣く事を忘れた子供の頃を取り戻すように嗚咽するシドを、まるで我が子の様にあやしていた男の光を映さない筈の瞳がふと細められる。
『・・・おぉ・・・そうか・・・。あんたが・・・。』
『?』
熱い涙に濡れた顔を上げたシドの額に、皺の刻まれた顔を濡らしながら男の涙が一滴落ちた。
『聞こえんか・・・?あの音(こえ)が・・・。懐かしい旋律(ひびき)を含んだあの音が。』
『・・・え?』
男の言葉を聞いて取り、耳を研ぎ澄ませる。
風の無い寒さも熱さも、そして血の滴る足の痛みの感覚も全く無いそんな世界で、緩やかに耳、否、届いてくるのは温かな違えようの無い小宇宙。
『っ!もしやあなたは・・・!』
反射的に顔を上げた、目の前にいるこの者が何者かと判った時には、シドの身体は淡く優しい、徐々に眩さを増していく光に包まれていく。
『・・・あの子の心が再び動いたか・・・。これ程までにあんたを呼ぶほどに・・・。』
段々と霞んでいくシドの視界に映る男・・否、バドを育ててそして慈しんだ養父・ベオウルフはその場にゆっくりと立ち上がる。
そして、血の繋がりが無くとも、どこかバドの面影の宿る笑みを浮かべ、シドが心地良く感じていたあの掌をそっと掲げていく。









“わしの馬鹿息子をよろしく頼む・・・。”

“もう一人のわしの愛し子よ、どうかあの子の傍に今度こそ共に――・・・。”









シドの御霊がヒルダの捧げる祈りによって、先に意識を取り戻したバドの腕の中にあるその身体に舞い戻り、その赤銅色の瞳を開いた先に映った双子の兄の表情は、涙には濡れて見開かれていてもその一瞬後に見せた表情はきっと養父が一目見たかったに違いない、晴れた笑顔そのものだった。
それから徐々に距離を詰めていきながら、何時しかその愛情が兄弟から人としてのそれに変わっても、あの頃とはもう違う。
想う心はお互い同じだからと、同等の存在でも全く異なる性質の笑みを浮かべ合いながら傍にいることを互いに誓った。


「ずっと傍に居ますから・・・。」
寒さの根強い冬の宵、二人の誕生日を挟む真夜中に、里帰りと報告と墓参りをかねて訪れたバドの生まれ育った生家で、手作りで拵えられたベオウルフの御霊の冥福を願う祭壇にて、祈るように紡いだ言葉と共に、捧げられたキャンドルに灯される焔。
柔らかな橙色の光に照らされたシドの肩を、その横に居たバドが優しく抱き寄せてふっと微笑んだ。
「だから安心してくれよ・・・。もう親不孝は・・・しないつもりだから。」
その優しい微笑みを、シドは少しだけ見上げていると、その視線に気づいたバドが、何だよ・・・と呟いて、照れた顔を弟に向けた。
「いえ・・・、血がつながって無くてもやっぱり親子なんだなって思って。」
「?お前俺の親父に会ったことあるのか?」
「・・・ええ。」
20年の年月を越えて始めて迎える二人だけの生誕日の夜に語られる、不可思議な御伽噺の様な奇跡を話すその前に、シドはもう一度深くもう一人の父親に手を重ね合わせ密やかに祈りを捧ぐ。






――形は違ってしまっても、彼を不幸に泣かせることだけは決してさせませんから・・・。

どうか光を取り戻したその両の瞳で、私達を見守っていてください――・・・。





使用音楽:鎮魂の歌(魑魅魍魎/陰陽座)