鬼時代の話です。
「遅い…!」
今宵、虫の好かない上弦の弐である童磨と切り立った崖の上で待ち合わせをしていた猗窩座は苦虫を嚙みつぶしたような表情でイライラしながら待っていた。
その理由はなんてことはない。青い彼岸花や太陽を克服する者、そして鬼狩りを統率する宿敵産屋敷家の情報共有のためだ。
猗窩座は青い彼岸花を始め様々な命を鬼の始祖から受けて方々を飛び回っていた。そのついでに各鬼たちの塒を回って情報を収集する。
鬼は基本的に陽が落ちた後にしか動けないため時間は非常に貴重だ。序列が下の鬼に関して言えばこちらから脳内対話や視覚共有ができるため、無駄に動き回らずに済む。
しかしこと序列が上の鬼に関しては話が別であり、上弦の壱と弐に関しては猗窩座自らが足を運ばなければならない。
前者はともかく後者の鬼に関しては近づくどころか目を合わせることすらしたくはない。自身を打ち破って弐の座を手に入れたという屈辱以外にも、得体の知れない怒りにも似た感情と不快感が湧いてくるのだ。
しかし絶対的忠誠を誓う鬼の始祖や内心で尊敬している壱の手前、これ以上の私怨じみた無様は晒せない。なので猗窩座はギリギリと唇を噛み締めながら、毎日のように脳内に入ってくる騒音のような一方通行の会話の隙間に、明日某所の崖の上で待つからさっさと来いと口早に告げ、会話を切り上げることに成功した。
しん、と止んだ脳内対話にようやく騒音が止んだと思い、とりあえず肩の荷を下ろした猗窩座は盟主が待ち望む情報を求めて、再び暗夜に飛び立った。
そして冒頭へと至り、強引に約束を取り付けた崖の上で、猗窩座は刺々しい思いを抱きながら待ちたくもない鬼を待ち続けている。
彼が待つ上弦の弐こと童磨は、世を忍ぶ仮の姿では万世極楽教という教祖をしている。そのため信者の身の上話を聞いたり説法をしたり、そして心身共に極楽へと導いたりと、鬼の始祖ほどではないにせよ多忙な身なのだ。
かといっていたずらに自分と話したがっている彼奴がすっぽかしなどするはずはないだろう。あと四半時待っても来なければ殴り込みに行ってやろう。
「猗窩座殿おまたせ~♪」
そう決意して握り拳を固めたのと同時、不意に現れた背後からの気配。
相変わらず気配を絶って近づくのが姑息なほど上手いと思った瞬間、ざわりと鳥肌が立つほどの嫌悪感に襲われる。
「~~っ!」
それを振り払うように、思わず拳を振りかぶろうとするも、いつもなら頭を叩き切る感触には何も伝わってこずに空を切る音が猗窩座の耳に届く。
「?」
不思議に思い振り返った猗窩座がまず捉えたのは、平素は憎々しく思いながら見上げた先にムカつくにやけ面…ではなく。
「もう、いきなりご挨拶だなぁ」
耳障りが良すぎて鳥肌が立つ低くしっとりした声は、甘く澄み通った声に変っており、鬱金色の”上弦“”参”の瞳に映るのは、白橡色の癖っ毛を持った自分よりも五寸ほど低い背丈の女だった。
「な、な……っ!?」
「ああ、これかい?」
喋り方はあの嫌悪感を覚える鬼そのままなのに、声と出で立ちがまるで違う。
「猗窩座殿との逢瀬に間に合うように来たったのだけれども、まとめて信者を”救済”したため、着物が汚れてしまってね。生憎とすぐに用意できるのが女物しかなかったため、こういった体ではせ参じたというわけさ」
女体となった童磨が身にまとうのは、絹で織られた紬の着物で氷の結晶が所狭しと散りばめられた逸品である。
今日届いたばかりの貢ぎ物であり、香を焚く暇もないまま纏ってきたと笑う童磨の身体から、微かに漂う栗の花の臭い。
思わず顔をしかめた猗窩座に、童磨は垂れ下がった眉をわずかに下げほんの一瞬気まずそうな顔を見せた。
「あ、まだ臭うのかな? 一応身を清めてはきたんだけど」
思わずくん、と袂を引き上げて臭いを嗅ぐ仕草に、そんなところまで好き放題にされたのかと猗窩座の苛立ちがぶわりと逆立つ。
「…来い」
「え?」
平素よりもか弱い手首をがしりと掴んだ猗窩座は刺々しい空気はそのままに童磨の身体をやすやすと抱き上げて切り立った崖の上からたん、と音を立てて飛び立つ。
「え、ちょ、猗窩座ど」
「無駄口を叩くな舌を噛むぞ」
舌を噛んだところで俺は鬼だからすぐに再生するのにと思いつつも童磨は素直に口を噤む。変わりに感じたことのないほわりとした、微かに柔らかい気持ちが彼の心を真綿のように包み込む。
その一方で女となった上弦の弐を軽々と抱き上げ、数多くある塒のそばにある泉に向かう猗窩座も猗窩座で無言のまま困惑していた。
(くそっ、なんで俺はコイツを清めたいなどと…!)
童磨が救済の一環としてその身を差し出していることは本人から聞きたくもないのに聞いている。そんな情報を俺によこして何になる? 慰めてでも欲しいのかと突っぱねたが、当の本人はいやいや違うよ、ただ流石にあなたが訪れたとき予備知識もないまま目撃したら気まずくなるだろうと思ってと答えたこの男の顔は相変わらずニコニコとした笑みを張り付けたままだった。
その表情を見てますます猗窩座の心には生理的嫌悪感が煽られ、所詮は生臭い俗物めいた似非教祖だとその時は切り捨てた。
だが実際、氷の結晶と共に雪の結晶を散りばめられている着物を着て女に擬態している童磨を見た瞬間、不意に臓腑が締め付けられるような嫌悪感や悪寒がウソのように引いたのだ。
とはいってもこの鬼に対して抱く感情は全く帳消しになったわけではない。
…––調子が狂う。ただそれだけだ。
それ以上の思いなど、こんな奴に抱くはずがない。
猗窩座は童磨を俵抱きにしたまま、自身の根城の一つである山奥に存在する小さな泉にたどりついた。
とすん、と平素より小柄な身体をいつもよりかは丁寧な扱いで下すと、「さっさとその不快な臭いを落とせ」と言い捨ててくるりと後ろを向いた。
うん、と小さく頷いてしゅるりと着物を脱いでいき、泉の周りに生えている木の枝へとひっかける。
一糸まとわぬ姿になり、泉の表面に足先をつけそのままぱしゃりと入水していく。
「浸かったか?」
「ああ、うん」
「済んだら脳内対話で呼べ。ただし余計な無駄口は叩くな」
その台詞から自分が水浴びを終えるまでどこかに行くことを判断した童磨は、思わず振り返る。
いつもなら小さなその背中が女に擬態しているせいかどこか広く見え、そして感じたことのない焦燥感に駆られた。
「ま、って…! 猗窩座殿…!」
何故自分は猗窩座を引き留めているのだろうと思う間もなく、童磨はぱしゃりと泉から立ち上がり濡れた身体のまま、立ち去ろうとする彼に後ろから抱き着いた。
「っやめろ! 何のつもりだ!!」
「え、え、あ、ごめんよ」
思わず大きく腕を振りかぶって童磨を振り払う。すると目の前の鬼は今まで見たこともないほどにうろたえた顔をしており、その輪郭にうっすらと牡丹色の”雪”が被るように見えた。
お互い呆然とし、毒気を抜かれたような空気が流れる。ややあって、おい、と沈黙を破ったのは猗窩座の方だった。
「もし…」
「ん?」
「もし、今、お前を抱かせろと言ったら、お前はやすやすとその身を差し出すのか?」
苛烈な怒号でも罵声でもない、まるでこの泉の面のように凪いだ声からなる言葉。すでに猗窩座は童磨の裸体から目を逸らしているため彼(女)を見てはいない。
ぴしゃん、と静かに水が滴る音が上弦の参に座する鬼の耳に小さく響く。
「…猗窩座殿は…」
沈黙の後、自身が発した言葉がまるで水鏡に反響するかのように透き通る声が聞こえてきた。聞いたことのないその声と静寂に言いようのない感覚がじわじわとせりあがってくる。
「俺に、救われたいのかい?」
「っ、ふざけるな! お前のところにいる弱者共と一緒にするな!!」
その言葉に一瞬にして感傷にも似た思いが吹き飛んでいった猗窩座はバッと顔を上げた。
「うん、それでいい」
その視線の先には、いつの間にか俯いていた童磨の顔がゆっくりと上がっていく。血で被ったような模様のある頭頂部からしっとりと水気を含んだ白橡の髪は、さながら月光を束ねたかのようで、柔らかく彼(女)の丸みを帯びた体を覆っていた。
「俺は弱きものを、気の毒なものを救うため助けるために生まれてきたんだ」
す、ととっくの昔に弱点ではなくなった心臓に掌を置き俯きながら童磨は言葉を紡ぐ。
「言うなればこの身体を抱けるのは、あなたが言うところの弱者のみ」
だから…、
弱くも気の毒でもないあなたにこの身は差し出せない。
たとえ信者たちがこの姿を見る機会がなくとも
あなたがあなたである限り
この身に触れることは未来永劫、やっては来ない。
水分を含んだまつ毛に伏せられた上弦の弐を刻む虹色の瞳が、豊かなまつ毛に縁どられて大きく見開かれた鬱金色の瞳を捉える。
「そんなわけだから、ゴメンね? 猗窩座殿」
そう言ってふわりと笑う童磨に、猗窩座はチっと舌打ちし、唇を強く噛み締めた。
「全く、貴様は得体のしれない奴だな…!」
そう言うや否や、今度こそその場から跳躍すると、ちょっと待ってよ猗窩座殿という情けない童磨の悲鳴が夜の山林に谺した。
それを背に聞きながら、あの鼻持ちならない鬼を狼狽させたことに少し気分を良くした猗窩座だが、肝心の情報を聞き忘れたことに気づき、再び刺々しい思いを抱えながらその場所に舞い戻ったのは刹那にも満たない後だった。
BGM:小袖の手(陰陽座)
CPシチュエーションスロットから
『切り立った崖の上で 刺々しく 異性装』より
拙宅では珍しい鬼時代のお話。
異性装というよりは女体化なので若干お題を外した感ありますが、刺々しさと切り立った崖の上は盛り込めたのでそこはまあ大目に見て下さいw。
どまさんにとっては座殿はあくまでも一番の友人(と思い込んでいる)なので、どうあがいてもミラクルが起きない限りは鬼時代はこれ以上の関係は望めない二人です。
ちなみにもしもの話、結構ありがち(?)な吉原潜入するパターンになった時、どちらかが女装しなければならないとなったら、座殿が不本意ながら申し出るだろうなと。悔しいが俺の方が身長的にもまあ適任だろうという感じで。でもってどまさんはそれを却下するまでがセットです。
階級が上になればなるほど(ム様ほどではないですが)老若男女の擬態は上手くいくのでそれなら俺の方が良いだろうという感じで。
そんなどまさんの台詞にビキっとなる座殿ですが、次いで「俺はありのままの猗窩座殿が好ましいんだ。歩きづらい着物を着て性別も偽ったあなたよりもありのままのあなたが」という口説き文句(?)を吐かれます。
この言葉自体は他意はなくどまさんの本心なのですが、座殿的には「私は狛治さんがいいんです」という恋雪の言葉と重なって混乱してしまい、やっぱり距離はこれ以上は縮まない鬼時代の二人がエモいのです。
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