和風月名と過去と今
某ハンバーガーショップを出発した後国道沿いに車を走らせ、温泉街の手前で右折しひた走ること30分弱。
政令指定都市の奥座敷と名高い温泉街のメインストリートから外れた、錦の橋を渡った場所に本日の宿はあった。
そこは十二棟からなる別荘然としたホテルであり、出入り口でチェックイン・チェックアウトが出来るため、入るのにいちいちもたつくことはない。
「へぇ~和風月名のホテルなんだねぇ」
童磨はずらりと並んだ一軒家のごとくのそれらを見て感嘆する。
そんな童磨の手を取った猗窩座は迷わず左端から二番目の棟の出入り口に設置されているタブレット端末を操作した。
左端から睦月・如月・弥生…といった順に並んでおり、その二番目ということはすなわち如月だ。
如月、つまりは二月であり、かつての十二鬼月になぞらえれば”弐”を意味する棟である。
そしてこの数字は猗窩座にも童磨にも因縁がある数字だ。
「なぜ如月にしたの?」
自分はともかく猗窩座にとっては歓迎できるべく数字ではないだろう。この座に居た彼を打ち破って童磨は上弦の弐に着いた。そのことについては、入れ替わりの血戦に則って行ったことであり、今も尚思うところはない。だが猗窩座にとってみれば色々複雑な思いがあるに違いはない。
だが猗窩座はそんな童磨の問いに、ふ、と笑った。
「良くも悪くも俺とお前を結び付ける数字だからだ」
「え…」
嘲りでも自虐でもない、心の底から慈しむような笑みでそう言われ、童磨の心は思わずとくりと高鳴る。
「俺が弐で、お前が陸…否、名も持たぬ鬼のままなら、今頃こうしてはいられなかった」
玄関の扉が開かれて猗窩座に引っ張られるようにして中へと入る。扉が自動で閉まるその間に、童磨の頬には熱い掌が宛がわれた。
「童磨、俺はお前と闘えて良かった」
「っ」
「お前の美しい血鬼術、戦術。名もない鬼から上弦の弐にまでのし上がった才能。…こうして見るとお前に惹かれぬわけがないのに」
あまりにも優しい顔をしてそう唱えてくる猗窩座に、童磨はむずむずとする気持ちのまま目をそらしてしまう。
だがそれを許さぬように、今度は猗窩座の両手が童磨の頬を捉え、そのまままっすぐに射貫くように見つめられる。
「猗窩座殿…」
「今更だと笑ってくれて構わない。だがこれが、今の俺が抱くお前への偽らざる気持ちだということは伝えておきたかった」
そのままぽふんと胸に顔を埋めるように紡ぐ言葉に、童磨の心臓は今度こそ高く鳴る。
その鼓動に気づいた猗窩座が思わず顔を上げると、そこには頬を染めながら口元を抑える童磨の姿があった。
「っ、ずるい…、ずるいぜ猗窩座殿…、そういうことを、そんな風に言われたら…」
どう返していいものか分からないと口ごもる童磨に、馬鹿だなと猗窩座は笑う。
「お前もたいがい難儀な奴だなぁ。”そうかそうか、猗窩座殿はそんな風に俺を思ってくれていたんだな”と、大らかに受け止めておけばいいものを」
不意に自分の口調を真似られた童磨は、思わず吹き出してしまう。
「ははっ! 今のソレ、俺の物真似かい?」
「そうだ、似てただろ?」
「えーっ!? 俺、そんな風に話しているのかい!?」
「何だ、自覚はなかったのか?」
気安げな表情で笑う猗窩座を見て、童磨も知らずに笑みが零れる。
あの頃、なぜ上弦の弐を目指したのか。明確な理由は様々だった。
唯一神であった無惨様のお役に立ちたかったのもあるし、多くの哀れな人々を救うために強くなれればその道筋が見つかるかもしれないという思いもあった。
それに何より、弱者には一瞥もくれなかった彼の視界に入りたい…という気持ちもあったのだ。つれない彼と仲良くしたいと思い、何度も脳内対話を試みたが結局はあの方の通信制限が入ってままならなかった。彼が先に逝ったとき形だけでもその死を弔いたいと思うほどに、猗窩座の存在は”昔”から童磨の中に確かに存在していた。
──…ああ、こんな風に、他でもない俺に笑い返してくれるあなたがここに、いる。
「っ、」
そう気づいた時にはもう涙は虹色の瞳から零れていた。
あまりにも嬉しくて、どうしようもないほど嬉しすぎて。
猗窩座の想いに触れるたび、心の中に柔らかいものがどんどん質量と熱量を伴って溢れてくる。
「ごめ、あかざどの…、俺、俺ね…」
慌てて目元をぬぐおうとするも、すぐにその手は留められ、変わりに目尻に触れる温もり。
「…っ」
地獄で初めて拭われてから、何度も何度も触れてくる温もりに、例えようもない恍惚感と愛しさが溢れ出てくる。
「猗窩座殿…、嬉し涙だってよくわかるよね」
「なんだ、そっちも自覚がなかったのか?」
「え?」
思いもよらない言葉に思わず目を丸くする童磨に、猗窩座はにこりと笑いかける。
「嬉し涙を流すときのお前は、例えようもなく嬉しそうで幸せな顔をしているからな」
最も、お前が流す涙は全部俺が拭うのだからと続けた猗窩座に、童磨は勢いよく抱きしめてしまう。
「ぶわっふ」
「猗窩座殿、あなたって人は…!」
こんな調子で自分以外の人に誰彼構わず声をかけているのではないのだろうかと思うと、ほんの少しだけ童磨の胸にざわりとした感覚が沸き起こる。
そんなの絶対に嫌だ。全部俺にだけかけて欲しい。
気に入った人間に鬼になれと勧誘していた彼を知っていたけど、その時ですら『勧誘が下手だな』としか思っていなかったのに。
「ど…ま、くるし…」
「へ? わっ!? 猗窩座殿!?!?!」
ぎゅうううううと思いっきり力を込めていたことに全く気が付かなかった童磨が、自身の胸から聞こえてきた虫の鳴くような声にハッとして腕を緩めると、白目を剥きつつどこか幸福そうな顔をした猗窩座がそこにいた。
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