紅葉と過去とこれからと
極楽と煩悩と甘い時間をパン屋の足湯で過ごした二人はその後奥座敷から出発し、目的地の一つである紅葉の名所へと向かう。
小さな橋を渡った先に見えてきた渓谷に色づく紅葉はとても鮮やかだった。
カーブした先が見えるほどに長い橋の下に広がる渓谷を見渡す限りの赤、黄、橙、褐色で埋まっている。近くに駐車場があるのでそこに車を止めた猗窩座と童磨は、行きかう車に気を付けながら、てくてくと歩いたその先に見える景色を堪能しにかかる。
「すごい…綺麗だ、綺麗だね猗窩座殿…」
「…ああ」
虹色の瞳に映し出される紅葉の方こそ猗窩座は見ていたかったが、それでも童磨の食い入るような視線に倣い、彼もまた見渡す限り燃え上がるようなその風景をじっと見つめていた。
橋の欄干は低く風よけもない。ここを通る人間にとってあまり考えたくないであろうが、もしも崩落したとなればこの渓谷の深さだ。ただの人間はひとたまりもないだろう。
仮に命綱をつけたとしてもよほど長くない限りは渓谷の下までたどり着けない。それほどまでに雄大な景色が猗窩座と童磨の前に広がっている。
「ねえ、猗窩座殿…」
紅葉を映していた虹色の瞳が笑みをたたえたままゆっくり振り返る。
「”昔”だったらさ、こんな渓谷、あなたなら軽々と降りて行っただろうな」
「…まあな」
あの方の命により青い彼岸花を探し求めていたのだ。”昔”ならこんな渓谷など文字通り一飛びで乗り越えて行けた。
「俺も連れて行ってほしいって強請ったところで、きっとあなたは無視していただろうな」
「…うっ、まあ、そうだな…」
”呪い”が発動していたという前提はあったにしろ、その頃のことを言われると未だに弱い。そんな猗窩座に気づいた童磨は、ごめんよ、あなたを責めているわけじゃないと笑って言った。
「”あの頃”の俺もさ、行けなかったわけじゃないんだ。曲がりなりにも上弦の弐だったからね。それなりに体幹は鍛えてあったし」
あはは♪と笑う童磨に、そういやそうだなと猗窩座も苦笑を浮かべる。上弦の弐。かつて二人が座していた因縁めいたこの数字は、今や二人の絆をがっちりと結びつけるものに他ならない。
「…きっと俺は、猗窩座殿と一緒に見たかったんだ。どこまでも一緒の景色をずっとずっと…。夜だからこんなに綺麗だとは思えなかっただろうけども」
この渓谷の底まで飛び降りて行って紅葉を見るなんてことは人間ではできる芸当ではない。それこそ心中でもしない限りは無理だ。
だからこそ、この陽光の中、限られた空間で、誰よりも大好きな人と共に見る景色が何よりも綺麗だと童磨は思えるのだ。
「だからその…、連れてきてくれてありがとう猗窩座殿」
ふんわりと笑いかけてくる童磨の表情に、とくりと猗窩座の胸が高鳴った。
「”今”あなたと見る景色だから、こんなに綺麗だと想える」
朝靄に翳むような幻想的な容姿を持つ男が、自分を見て、心底嬉しそうに笑っている。
そう意識してしまうと、もうダメだった。
たまらない愛しさにつき上げられ、どこまでも欲しいと思ってしまう。
目尻に、瞼に、頬に、唇に口づけて、どこもかしこも自分のものだと主張したくてたまらなくなる。
「…それは俺だって同じだ、童磨」
なので、すっと距離を詰めて猗窩座は童磨の掌をそっと取った。指先からしっかりと絡ませ、簡単には離れない、そう主張するように。
「言い訳はしない。”昔”の俺は筋金入りの馬鹿野郎だった」
「…」
肯定も否定しないまま童磨は猗窩座の言葉を待つ。
「お前を痛めつけた償いだって、あの地獄の使役で終わったかどうかすら怪しいところだ」
「猗窩座殿、それは」
流石に聞き捨てならない台詞が飛び出したと感じた童磨が口を出す。償いも何もあったものではない。あれは、”あの頃”の猗窩座なりのコミュニケーションの取り方だと信じて疑っていなかったし恨んでもいない。そうして猗窩座の拳を受け止めることが上に立つ者の役目だと信じてやまなかったのだ。ましてや地獄に堕ちてから、自分に対しての態度は当人ではどうしようもできなかった”呪い”だと知ったのだから尚のことだ。
「…償いで、一緒にいる…なんて言わないでおくれよ?」
もしもそんな気持ちでいられても、猗窩座にとっては苦痛でしかない。しかしそんな童磨の言葉を、お前は馬鹿かと否定するように、その柔らかな両頬をむに、とつねり上げてきた。
「うぶっ」
「そんなわけないだろう? 俺はそんな女々しくなどない」
痛みは感じない。手加減をしてくれている。その声から刺々しさも苛立ちも感じない。
ただ伝わってくるのは温かな猗窩座からの想い。
「償い終えたなどとは口が裂けても言わない。だがそれ以上に、俺はお前を愛している」
だから一緒にいるのだと伝えた猗窩座の指に、ぽろ、と熱い水滴が伝っていく。
「…童磨…」
「っ…」
愛している、その響きだけでこんなにも涙腺が壊れるなどと知らなかった。
「痛めつけてしまった分まで、いやそれ以上にお前を大切にするから」
そう言いながらそっと目尻に口付けられる。猗窩座の熱い唇に吸い込まれていく嬉し涙。その感触に熱さに触れ続けていくうちにもう離れたくないと切に想う。
「お、れも…」
「ん…」
「俺もあなたを大切にする…。だから、だから…っ」
───…俺以外にそんな顔をもう向けないで。
童磨の振り絞るような言葉に猗窩座は思わず向日葵色の瞳を丸くする。
「ど、」
名前を呼びかけた声は音になることはなかった。涙に濡れた童磨の唇によって塞がれてそのまま飲み込まれてしまったからだ。
「…”昔”は…」
ちゅっと啄んで離れていくだけに留まった口付けの後、少し戸惑うように童磨は言葉を紡いでいく。
「…あなたが、鬼狩りの人間をスカウトしようが何とも思わなかった…」
「…ああ」
思い当たることが多すぎて思わず苦い顔になるが、一言一句逃さずに猗窩座は耳を欹てる。
「…でも、今、もしもあの炎柱の子や水柱の子があなたの前に現れたら…、正直面白くないなって思っちゃうんだ」
そう口にしただけで童磨の心はきゅううと窄まっていくような感覚に襲われる。
「敵であろうと相手の実力を認めて素直に褒められるのはあなたの美点だと思う。でももうあなたは…、俺のもの、なんだから…」
何故だかとても顔が熱い。そして自分の放った言葉がとてつもなく身勝手なものに感じてしまう。
一個人としての人格がある限り、人は決して他人のものにはならないとずっと思っていたのに。
だけど、それを差っ引いても自分以外に賛美の言葉もその笑顔も向けてほしくないと心から思った。
「…童磨…」
「ははっ、らしくないね。良いんだよ猗窩座殿。あなたのその飾らない真っすぐな人柄は、多くの者を魅了してしかるべ…っ」
笑みを浮かべたまま饒舌に話す声は猗窩座の唇によって封じ込められた。
冷たく強い風が紅葉を揺らして何枚かの葉っぱを虚空へと誘う。それは口づけを交わす二人の一時的な窓掛けの役割を果たした。
「は…っ」
一瞬だが魂ごと持っていきそうな熱い口づけが解かれ、童磨の唇から吐息が漏れる。その虹色の瞳の前には例えようもなく嬉しそうな表情の猗窩座がいて。
「”そうかそうか、お前はそんな風に俺を思ってくれていたんだな”」
「っ……」
その口調は昨日に和風月名のホテルの玄関口で言われたのと同じだった。
「…俺は嬉しい。童磨」
「猗窩座殿…」
頬が熱くて熱くて仕方がない。目頭が熱くなるのも止められない。
「心配しなくても、今生ではお前以外にあんなことを言うつもりは毛頭ない」
ぐ、と後頭部に手をあてがわれてそのまま顔を近づけさせられる。
「ああ、確かに俺はお前のもので……」
────……そしてお前も俺のものだ。
名前を呼ぼうと口を開きかけた童磨の唇が何度目かの口づけによって塞がれた。
それは胸の中に少しずつ灯が灯って行くような温かくとてもとても甘く穏やかで。
そして少しずつ猗窩座の存在と愛しさが心の中に降り積もっていくような感覚で。
「ぁ、かざ、ど」
ぐうううううううううううううううう
ぎゅるうううううううううううううう
「…」
「……」
「………くっ」
「…………ふ、」
一瞬のうちに雲散霧消した甘い雰囲気。
呆けたようにお互い顔を見合わせるも、じわじわと湧き上がってくる可笑しさに二人は次の瞬間吹き出していた。
「あんなに朝食べたのになぁ」
「仕方あるまい、あれだけ昨晩運動したのだから」
にやり、と少しだけ悪どい笑みを浮かべる猗窩座に、今度は文字通り胸がきゅんと張る感覚を覚えた童磨が少しだけ顔を赤らめて狼狽える。
「ん? どうした」
「…俺先に行くね。猗窩座殿のパンはないと思ってくれよ」
「は!? おいちょっと待てこら、童磨!!」
コンパスの長い足で駆け出していく童磨を慌てて追いかけていく猗窩座。
揶揄われたことに対してのほんの少しの意趣返しに慌てて追いかけてくる猗窩座に、”昔”とは逆だなぁとホワホワした気持ちのまま童磨は車へと駆けていく。
やがて”昔”は離れるために利用していた俊敏さで追いついた猗窩座に童磨の唇は何度目かの口づけによって奪われていった。
燃え上がる炎の如く渓谷に色づく紅葉たちはそんな二人に充てられるように更に鮮やかに綺麗に色づき、訪れる者たちの目を長く楽しませたという。
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