三月の終わりに差し掛かるある夜のこと。俺と童磨は花見をすることにした。お互い仕事が入っていたから現地集合にはなるが、家からともに行くことがすっかり当たり前になっていた俺からするとそれは懐かしくもあり、どことなく新鮮さすら感じる。
今日は少しばかり手間取ってしまった案件もあり、待ち合わせ時間に若干遅れてしまう時間の列車に飛び乗った。車内は自分と同じように夜桜見物に洒落込もうとする人々でごった返している。
仲睦まじい恋人や夫婦、友人同士のグループ等、その関係性は様々だろう。そんな集団の中にいるとじわじわと焦燥感に駆られてしまう。
何故童磨がいない。
ここに童磨がいてくれたら。
四六時中ずっと傍にいられるわけではないことはお互い働いているから理解はしている。俺が出張で家を空けることもあればその逆もある。その度に行ってらっしゃいとお互い見送り、合間合間に連絡を入れて、無事に帰ってきたら離れていた分の愛を確かめ合う。そうやって時と愛を育んできた。
だが今日は無性にここに童磨がいないことに対してナーバスになっていってしまうのが分かる。思っていた以上に精神的疲労が重なって疲れているからそんな風に思うのだろうか? それとも、〝昔〟の狛治でいた頃のように、この焦燥感は悪い方向への予感めいたものだったら……?
ぞくりとした悪寒めいたものが走る一歩直前、そんな風に堕ちていきそうになっていた俺を現実に引き戻すかのごとく、ピロリン♪と着信を告げる軽快な音がスマホから聞こえてきた。
〝いい場所取とれたぜ。気をつけてゆっくりおいでよ〟
ポケットからスマホを取り出しLINEを開けばそんな文字と顔文字が並んでいる。それを目にした俺は詰めていた息をようやく吐き出して安堵することができた。そしてそれ見ている内に沸き起こってきた感情は早く会いたくて仕方がないという気持ちだった。
幸いにも目的地まで時間はそうかからない。なので俺はすぐに返事を打つ。
〝thx あと5分で駅着く〟
そう打ち終えた俺の目に飛び込んできてのは、ライトアップされた公園にちらほら見える食い物屋の屋台の幟だった。
それを見てふっ、と更に頬が緩むのを自覚した俺は更に文字を打ち込んだ。
〝屋台よってくが何くいたい?〟
華やかで麗しい顔の童磨はその外見に反して庶民的な食い物を好む。曰く、ご飯はお腹が空いているときと大好きな人と食べたらなんだって美味しいよとのこと。そういえば〝昔〟は割りと豪快な歩き食いや口の周りを血塗れにして栄養価の高い女を貪り食っていたな…。それでいてテーブルマナーは弁えているのだからつくづく器用な奴だと思う。
惚れた欲目でもなんでもない真実に基づいた記憶を思い返していたら再び着信がピロリと鳴った。
〝もちろんフランクフルト! あと焼きそばとりんご飴と、猗窩座殿のオススメがあったらお願い♡〟
「………」
俺はしばし無心になった。いつかの初詣で、賽銭を落とすよりも美味しい物を提供してくれる屋台にお金を落としたほうが有意義だと童磨は言っていた。それはいい、それはとても奴らしいし俺も最もだなと思った。問題はそこではない。
奴はめちゃめちゃフランクフルトを貪り食うのだ。何の変哲もないフランクフルトを四本も(俺が知りうる限り)。そしてりんご飴も好物だ。それはいい。自分が食えないことを棚に上げて、食の好みにいちゃもんを付けてあれこれ難癖をつけるような、〝昔〟の狭量な俺には死んでも戻るつもりはない。問題はその食い方にあるのだ。フランクフルト、りんご飴。そして俺は童磨を心から愛していて身も心も結ばれている。言えることはそれだけだ、後はどうか察してくれ。
「………………まあ、俺の方を向かせて食わせればいいか、うん」
小さく呟いた俺の声など誰にも聞こえていないし、聞こえたところでなんの支障もない。そうこうしているうちに目的地へ着いたのだと理解した俺は、慌てて電車から飛び出した。
退勤ラッシュは過ぎていたし降りる時間も計らずともずらしたおかげで、人込みにもまれることなくプラットフォームから改札口まで一気に出て来た俺の目に飛び込んできたのは、鮮やかな薄紅だった。
トンネルを抜ければそこは雪国だという有名な小説のフレーズがあるが、駅を抜ければそこはまるで異界のように俺は思えた。
藍色の夜空の下に狂い咲く桜の群れは、まるで遠くで燃え上がる地獄の業火の名残のように見える。
そしてその場所へ向かっていく人間はまるで黄泉平坂を上る意思のない亡者のようだと思い、傍とその考えを首を振って追い出す。
────何を、縁起でもないことを…。
夜桜など〝昔〟にも四季が巡る度に何度も見かけた。こんな風にじっくりと見たことはないにしろ、それを綺麗だと思えるような風流な心は持ち合わせていなかった。そもそも探していたのはあの方が追い求めていた青であり、薄紅であるこの花は最初から度外視していた。
それでも今生に生れ落ちた際、童磨と共に何度も見てきた。親友の頃、恋人になってから数年。その度に桜を見上げて綺麗だね綺麗だねと歌うように笑う童磨にこっそり見惚れていたのはありありと思い出せるのに。
先程感じた焦燥感が再び心に沸き起こってくる。
どうしてお前がここにいない。
どうして俺はお前の傍にいない。
逢いたい、会いたい。
早く、一刻も早く。
今度こそ訳の分からない悪寒に襲われそうになり、頭を振って無理矢理に感傷めいた考えを追い出した同時、俺の目に飛び込んできたのは童磨ご所望の屋台の幟だった。
赤い旗生地にマスタードに近い色でフランクフルトと書かれた目立つ文字は、〝昔〟に引きずられそうになった俺をたちまち現世に戻すことに成功する。それと同時、俺の腹の虫もいいから何か食わせろと盛大に鳴り響き、それがおかしくて俺は密かに笑い声をあげてしまった。
先程はLINEで、今は彼奴の食い意地によって。
いつだってお前は俺の心をこうして繋ぎ止めてくる。〝昔〟の過ちも何もかもを飲み下し、今の俺を受け止めてくれる。
俺は何度でも救い上げられる。
何も、恐れることはない。
〝昔〟とは違う。むしろこの幻想的な世界よりも儚い黄泉の闇の中で、白橡の髪が鮮やかに舞い降りてきたあの時間に。
俺たちの本当の時間が始まったのだから。
幸いにも他の通行人たちは殆どが花見に夢中なため、奇異な目で見られることはなかったが、俺にとってはどうでもいいことだ。
腹を空かせているであろう童磨に、離れていても救いあげてくれる感謝も込めて、俺は三種類のフランクフルトの店をはしごした後、リクエストにあったりんご飴と焼きそば、そして目についた芋餅を買うと、一人で待たせてしまった童磨の元へ駆けつけていった。
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