「あー、あー、マイクテストマイクテスト」
日当たりの良い和室。すっかり筏葛から灰桜へと様変わりした髪を持つ猗窩座が座布団の上に腰を下ろし、ふさりとした豊かな睫毛を持つ瞳を閉じて深呼吸をする。
少しずつ気温も太陽も高くなり、日の時間が長くなる季節の空気はどこか柔らかく懐かしい匂いがする。
「どうま」
そんな空気に充てられるまま、猗窩座は少し嗄れてはいるがこれ以上にない甘い響きを持ってその名前を呼ぶ。
「…どうま」
返ってくる声はない。聞こえてくるのは時折風に揺られる室内のオフホワイトの柔絹のカーテンのシャラシャラという音だけだ。
「…どうま、……愛してる」
溢れんばかりの伴侶への想いと名前を呼ぶもやはり帰ってくる声もない。
────…ふふ、マイクなんか使ってないのに。
────…あ、またぶるぶる振動してる
────……あはは、俺の名前を呼んでもぶるぶる振動してるよ……。
若かりし頃の彼の声が今でもはっきり思い出せる。
すっかりと遠くなった耳なのに。今もすぐそこにいると錯覚するほど鮮やかに。
だけどそこに伴っていた、背後にいたはずの愛しい伴侶の存在は何も感じない。
朗らかな笑い声も、ぎゅっと前に回される両腕も、体温も、匂いも、何もかも。
「なんてな」
くるりと猗窩座は背後を振り返るもそこには誰もいない。
豊満で大柄な体格を持ちながら、あどけなく、どこまでも綺麗な顔立ちの白橡の髪を持つ親友であり恋人であり最終的に伴侶となった童磨の姿は、今は、ここにない。
長く生きてきた証拠を深く刻み込んだ目尻を緩めながら、小さく息を吐き猗窩座は再び前を向く。
斜め上へと向けた向日葵色の瞳が捉えるのは、小ぢんまりとした仏壇と小さな写真立て。
アクリルクリアフレーム型の中に納まるのは、同じように長く生きた証を愛らしいかんばせに刻んだ大輪の花のように微笑む愛しい人の在りし日の記録。
もしもの時のためにと、お互いのスマホを交換して写しあった写真。
他所行きの顔よりも愛した人を目の前にした顔を遺した方が寂しくないだろうという自分の提案に、流石猗窩座殿だなと感心しながら、最高の笑顔を残してくれた。
自分のスマホにも、愛する童磨を前にして写した写真が入っている。それは既にプリントアウトして、遺影に使って貰えるようにと頼んである。
今生では先に童磨が黄泉路へと旅立った。〝昔〟とは逆の立場となった猗窩座は、きちんと童磨の最期を看取り、共に一緒の墓に入ることを約束した。
その時の童磨の言葉を、猗窩座は忘れることなく覚えている。
────…あなたには幸せになってほしいから…。
────…俺以上に愛せる人がいたら、その人と幸せになってね。
最期の最後まで、自分のことよりも己のことを優先する童磨を猗窩座はきつくきつく抱きしめていた。
もう起こすことすら出来なくなっていた身体を、自分の熱を与えるように、そして童磨の温もりをこの腕に覚えていられるように、ひたすら想いと祈りを込めて。
────…ふふ、猗窩座殿にくっつかれるのは心地が良いなぁ……。
いつか、自分が彼に言った言葉が返ってきた。
────…何で? あなたを好きだからそう思ったまでだよ?
こんな時にそんなことを言うな、反則だと泣きじゃくりながら吐き捨てた自分に、更に穏やかに切り返された。
────…あかざどの……。
細くなった両腕が緩やかに持ち上げられ背中に回されてぎゅっと抱きしめられる。純真無垢な白橡から雪色へ変化した髪の、共に年を重ねてきた百年以上の縁を持つかけがえのない存在と変わった童磨を、呼応するように猗窩座はきつくきつく抱きしめた。
────…とくとくいってるね。あなたの心音……。
吐息のように紡がれる声。緩やかに終わりに向かっていく命をそれでもギリギリまで引き留めるように猗窩座はますます強く童磨をかき抱く。
────……不思議だなぁ、今の今になってあなたと一緒に生きて来たって実感が、湧いてくるなんて…。
穏やかさと安らかさを滲ませながらそう言う童磨の顔を覗き込めば、若かりし頃と同じように無邪気に、そして幸せそうに笑っていて。
────……猗窩座殿、俺、幸せだよ…。でもね、もっと幸せな気持ちのまま、逝きたいなぁ…。
すり、と頬を左胸に摺り寄せてくる。きっとその仕草が最期になるのだろうと覚悟を決めた猗窩座は童磨の耳元に唇を近づけ、他者を優先する彼が自分に望んだ今生での最後の幸せを与えていく。
『「童磨…、愛している」』
丸まった背筋を伸ばし、よっこいせと声をあげて立ち上がる。そして皺だらけの指を伸ばして、写真立て越しの伴侶の姿をそっとなぞりあげながら、あの日、万感の想いを込めて紡いだ言葉を、新たに募る想いも乗せてそう告げた。
不意に強く吹き付けた風がしゃらん、とカーテンを揺らす。
その風は写真立ての中で微笑む永遠の想い人の上にぽつぽつとこぼす猗窩座の涙をぬぐうかの如く、優しく柔らかくその目尻と頬を撫でていったのだった。
BGM:ワスレナグサ
お題に滾り書いていたら脳内でBGMが鳴り響いて慌てて続きを書き足してこのような形になりました。
前とは違い現世ではどまちゃんの方が座殿より先に逝くイメージが強いのですが、きちんと愛し合った記憶があるから座殿はきちんとどまちゃんの分まで生きていけると信じてます。
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