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「なぜ……かようなことをされて…黙っていられる」
「へ?」
いつの間にか側に立っていた長身の影が童磨に話しかける。
先ほどキスを仕掛けた照れ屋で恥ずかしがり屋の恋人から思いっきり全力の腹パンを喰らいうずくまっていた童磨がゲホゲホとせき込みながら顔を上げた先には、黒檀の如く髪を肩の部分で切り落とした涼やかな目元をした男前の青年がいた。
「やあやあ黒死牟殿じゃないか! あなたも人間として生まれ変わっていたんだね!!」
一目見ただけでは誰なのか思い及ばなかったがそう言えば声はかつて童磨のすぐ上の地位に座していた鬼と同じものであったので、賢いと自負している童磨はあっさりとその再開を受け入れる。ニカーっと花の咲くような笑顔でサッと立ち上がったかと思うと、ギュッと両手を握り締められるのを黒死牟は黙って受け止めていた。
「ああ…、私も…生まれ変わった…。お前も…」
「うんうん! 俺も人間として生まれ変わったんだよ! それで…」
ウキウキとしながら童磨はかつての上席に近況報告を行う。六つの目と顔の痣が無ければこんな面立ちなのか、中々格好いいなと思いながら、鬼として罪を償い生まれ変わった先で、先ほど腹パンを喰らった者と恋仲であること。そして前世では浅からぬ因縁があるが、紆余曲折を経て恋人同士になれたということ。また、前世では感情がなかったがこうして感情を得られて毎日が楽しいということを黒死牟は頷きもせずに黙って聞いていた。
「ふふ、でも今日は本当に良い日だなぁ」
それでも童磨はウキウキとした姿勢を崩さない。立ち話もなんだからと喫茶店にでもと彼は誘ってきたが、時折腹に手を当ててさする仕草からしてもらった一撃は相当に重たかったらしい。なので黒死牟は有無を言わさずに童磨の手を取り、表を走るタクシーを捕まえて自分の部屋へと連れ帰った。
とりあえず服をまくり上げて腹を見ると、痛々しい痣がくっきりと残っている。それを見て若干顔をしかめる黒死牟に童磨は『え、そんなに酷いことになってるの?』と少し不安そうな顔をして尋ねてきたのでハッキリと頷いた。
「…先ほどから…聞いていれば…その者は…お前を頻繁に…殴っているようだな…」
「へ? ああでもそれはあの子なりの照れ隠しだからね」
「照れ、隠し…」
「うん。元々そういう性質の子だってこと、俺は賢いから覚えているし、あっちも記憶があるから生まれ変わっても中々変わらないしね」
「…そうか…」
童磨の言葉に黒死牟は再び息を吐き、ゆっくりとその腹の痣に手をかざす。
「ああ、そんなに撫でてくれなくても大丈夫だよ。寝かせてくれたおかげでだいぶ楽になったし」
「…ならば、良い…」
六つ目だった頃とは違い見慣れない二つの瞳だが、それでもあの頃の黒死牟だと童磨は実感してにへらと笑う。そんな童磨を黙って見つめていた黒死牟が不意に口を開いた。
「…私なら…」
「ん?」
「…かような扱いなど…しない…。お前のような者に抱きしめられ…、口吸いをされることを…、厭うたりはせぬ…」
「え、え?」
話の前後も脈絡もない黒死牟の言葉に、童磨は虹色の瞳を白黒とさせる。感情が芽生えたとはいえ二度目の人生で初経験真っ只中なのだ。無かった頃のように状況を演算して答えのように示そうにもままならないことの方が殆どだ。だからこの時の童磨は真剣に黒死牟が何を言い出しているのか、一度聞いただけでは理解できなかった。
「ごめん、今、なんて?」
「…私なら、お前をそんな風には扱わぬ…。そう言った」
「…ああ! 黒死牟殿。俺が感情を得たようにあなたも冗談を言うようになったんだね!」
もう一度きょとんとした顔になった童磨だが、これは黒死牟なりのジョークだという答えをはじき出す。しかし冗談など言ったつもりはなかった黒死牟は横たわっていたソファから起き上がろうとする童磨の上へと覆いかぶさる。
「え、えー…。あの、流石にこれはからかいが過ぎるなぁ…」
「からかってなど…おらぬ…。ましてや、冗談でも…ない」
鬼の頃は六つの目が禍々しくも美しい月のようだったが、今はただただ慈しむ光を放つ二つの月のように童磨を真剣に見据えている。
「…その…、俺は一応あの子と恋人、同士なわけで…」
流石に彼が何をしようとしているのが分かってしまった童磨がかち合った視線を顔ごと背けて逸らす。恋人がいる手前、不貞を働くわけにはいかないと口では言ったが実のところそれは建前であり、胸の中にとくとくと湧き上がってくる感覚に戸惑いを覚えてしまってこれ以上は直視できないという本能的な恐れからだった。
(なんだろう、なんだろうこれ…!)
こんな感覚、知らない。蟲柱と地獄で出会い、無いはずの心臓が高ぶったあの感覚とは全く違う。まるでエー玉を落とした瓶ラムネのようにシュワシュワとくとくと静かに溢れるような感覚。
「ひゃっ…!」
そんな感覚に戸惑う童磨の頬に、少しだけ体温の低い大きな掌が触れる。まるで人の体温にやけどを覚えた魚のように身体を跳ね上がらせた童磨の唇に黒死牟の唇がそっと触れた。
瞬間、びりっとした軽い電流のようなものが童磨の身体に駆け巡る。何度も何度も唇の表面がすり合わされる。決して童磨を押し返すことはない。むしろ逆に童磨を逃すまいと覆いかぶさってくる。
(なにこれ、なにこれ。こんなの知らない…!)
こんなキスは初めてだった。あの子とするキスはいつもこちらからだ。もっともっと唇の甘さや柔らかさを堪能したくても、頬やら額やら胸やらをぎゅうぎゅうに押されてそれは一瞬で終わる。唇を離せば一刻も早く離れろと言わんばかりの形相で睨みつけられ、それでも抱きしめれば離せだのクソ野郎だの本気で罵られあまつさえ鉄拳が飛んでくる。それが恋人としてのキスやハグ、スキンシップだと思っていた。
だが今はどうだ? 黒死牟とは出会ったばかりなのに、前世の記憶はあるにせよ、仲間であり上司という存在でしかなかった知り合いに、こんなキスをされて心が内側からくすぐられているような、それでいてとても温かなもので満たされていく。
(あ、ぁ…、きもち、いぃ…)
間近で薫る黒死牟の飾り気のないシンプルな香りがする。その匂いに包み込まれてますます童磨は困惑しながらもその感覚に抗えず彼からの口づけを受け止め続けていく。
やがて触れるだけの口づけはゆっくりと終わりを迎える。記憶よりも少し短い黒檀を思わせる髪が童磨の頬を柔らかく撫でる。それすらもなぜか心地よくて温かくてたまらない。
「ぁ…」
気が付けば童磨は離れていこうとする黒死牟の後頭部に両手を回していた。これでおしまいなんて嫌だ。もっとこの感覚を知りたいという好奇心…とはまた違う気がするが、それでも童磨は黒死牟と離れがたかった。
「…童磨…」
「あの、その…黒死牟殿…、俺は…」
「巌勝、だ」
「え?」
「私の…今の世の名前だ」
みちかつどの…と小さく名前を紡いだ童磨の唇が再び黒死牟…巌勝によって塞がれていき、再び温かな音を伴う鼓動がとくとくと胸に灯っていった。
「…今日は、その…ありが、とう…」
「気にするな…」
あれから何度も何度もキスをして、その度に童磨は泣きたくなるような温かな鼓動を感じ取り、ついに虹色の瞳から涙を決壊させ、黒死牟の胸を借りて今の今まで泣いてしまっていた。
演技でもなく涙が止まらないなんてことは初めてだった。恋人がいるのにキスをしあったのはいけないことなのは分かっているが、それに対しての後ろめたさや悲しさなどでは決してない。
ではなぜ涙が出て来たのかと自問自答しながら、自宅の最寄り駅まで送ってもらった童磨は火照った顔を冷ますために交通機関を使わずに歩いて帰ったが、一向に冷える気配はなかった。
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