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それから童磨は黒死牟…もとい巌勝と良く出会うようになった。
それは決まって彼が恋人から手酷い扱いを受けた当日か翌日だった。
連れ立って特に約束をしているわけではない。連絡先も何となく機会を掴めず交換はしていない。にも拘らず巌勝は傷ついた童磨を労わるかのようにいつも絶妙なタイミングで現れては家へと招き入れていた。
「今日は頬にもらっちゃったなぁ」
そう言いながら笑う童磨の痛々しく腫れた頬に巌勝は無言のまま濡れたタオルを押し当てる。ぃっ、という小さな悲鳴と共に整った顔立ちがしかめられる。
「…唇は…切れてはいないか…?」
「ん、それは大丈夫だよ。何だかんだで手加減してくれたんだ。本当は優しいんだよあの子」
あははと相変わらず笑いながら恋人をかばう童磨に、巌勝は小さくそうか…とだけ呟いた。
何度か訪れた巌勝の部屋は、和風テイストというわけではなく彼らしくこざっぱりとした部屋だった。仕事は何をしているかは聞いてはいないが、必要最低限の物しかない。最も童磨が通されているのはリビング兼応接間であるので、本当の意味での彼の私室はここと同じでこざっぱりしているかどうかは知るところではないが。
「ああ、もう大丈夫だよ」
頬に走っていた痛みが徐々に引いていることを暗に伝えれば、不意に空気が微妙に変わる。そうして童磨の頬から濡れたタオルがそっと取り払われ、代わりに巌勝の掌が宛がわれる。
先ほどのタオルよりも少しだけ高いくらいの温度の掌は、それでも童磨の身体に微かな甘さを含む気持ちよさをもたらすには十分すぎる熱だった。
「ん…」
巌勝の唇が少し前まで腫れあがっていた頬に触れる。薄い肉付きの少しだけかさついた感触がする。一瞬だけ触れることを辛うじて許されるあの子の唇は確かもう少し柔らかかったなぁと思う。それでも巌勝の唇の感触はこのままの方がいいなと思う童磨は、頬から離れて自らの唇を塞いでくる彼からのキスを受け入れ、湧き上がっていく心地よさに密かに身を浸していた。
「あ、はは…。今日は特に虫の居所が悪かったみたいでね」
頬に傷を作った数日後、童磨は稀有な色彩を持つ瞳の下に傷を作ってやってきたため、流石の巌勝も幽憤を感じずにはいられなかった。
「…お前は、本当に…」
「あー、皆まで言わないで巌勝殿! これはあの子が完全に心を開いてくれた証なんだよ。何だかんだ言って今まで虫の居所が悪いところを見せなかったのはきっと俺がまだ信頼に値しなかったからであって……」
「黙れ」
「えぇ~っ! そんな…んっ」
この期に及んでこんな扱いしかしない恋人を庇おうとする童磨の声をこれ以上聞きたくなくて巌勝は荒々しく口をふさぐ。
「ん、ふ…っ」
ずっと今まで巌勝が施してきた優しく柔らかいそれとは明らかに違う。荒々しい、童磨の意思など無視し、自分の欲求をそのままぶつけるかの如くの口づけ。
だが童磨にとって、そんな独占欲をむき出しにしてくる巌勝の口づけはとても心地が良いものだと心に染み入ってくる。
(息が苦しい…でも、)
────…もっと、して欲しい。
この日初めて、童磨は巌勝の背中に自分の両腕をするりと回した。その感触に巌勝の月は驚きに満ちたが、やがてふ、と細められるとその獰猛さを顰めると、ことさら柔らかく優しいものへと変え、童磨の心を温かく柔らかく満たす口づけへと切り替えていった。
最近のお前はわきまえているなと不意に恋人から告げられて、カトラリーにクルクルとパスタを巻いていた童磨の手が一瞬止まる。
大きく設置された窓から差し込む日差しが真っ白な壁に当たり、そこに飾られている観葉植物や花で作られたガーランドと相まって更に目映く爽やかな印象を与えるカフェテリアでデートをしていた最中のことだった。
「え、それってどういう意味で…?」
言われた意味が分からずに尋ねると、目の前の恋人はちっと舌打ちをし、物分かりが悪い自分に対する怒りによるものか、高潮した顔で吐き捨てた。
むやみやたらとキスを迫らなくなった。
前までお前は腹を見せれば褒美をもらえる駄犬のようにキスを迫っていたからな。
おかげで心身ともに健やかだ。
この調子でならこれから先も一緒にいてやらなくもない。
要約すればそういった旨のことを言われた途端、まるでグレースケールがかかったように恋人を始め、周囲から色が褪せていくのを感じた。
あれほどキラキラと輝いて見えていた世界が鈍色になっていく。それはまるで〝昔〟、感情がないまま信者を救済していた頃と同じ…否、それよりも無味乾燥な世界へと塗り替わっていく。
無駄に気取った名前のメニューばかりだな、ハイソな金持ちアピールかと、少しでも恋人を喜ばせたくて連れてきたカフェに入る前に言われた言葉を不意に思い出す。
そのことが引き金となり、いつしか目の前の恋人とキスをしたいという気持ちがすっかり萎れてしまっていたことに気づかされた。
正しくは巌勝に強引な口づけを施されたときからだろうか。あの時、ほんの少しだけ心がざわめいたのは確かだけど、それでも彼は自分を突き放そうとはせずそれどころか身体はかき抱かれたままだった。離れようともがいたのは、いつも恋人から離せうざったいと藻搔かれる自分の方だった。それでもそうはさせまいと巌勝の力強い腕に抱きこまれ、徐々に脳髄から抵抗するという意思は溶かされていき、変わりに湧き上がってきたのはもっとして欲しいという気持ちだった。
それは初めて得たものだった。求めてばかりの己が求められた。恋人からの扱いとは真逆に自分を扱ってくれる巌勝とのキスの記憶を塗り替えられたくないと、童磨はその頻度を減らしたまでだ。
だけどこれは恋人への裏切り行為だということも分かってはいた。どう言いつくろってもあのキスは元上司から部下へ、百歩譲って友愛だとしても似つかわしくない。折角前世からの縁を繋ぐことができた恋人を手放したくないという欲求は童磨の中に確かにあったのだ。
この時までは。
「…ゴメン…」
太眉をシュンと悲し気に下げて謝罪をする童磨に恋人の目が見開かれる。
勝手気ままに振る舞うお前が謝るなんてどうした? 今日は槍でも振るんじゃないのかと言葉の端々から滲み出る自分への誹りになぜ今の今まで気づかなかったのだろうか。
「…うん、ゴメンね…」
違う。きっと自分は最初から気づいていた。それでも前世から望んでいた感情が手に入り、目の前の子と仲良くしたいという前世からの想いに執着して、子どもの恋愛ごっこに巻き込んでしまったのだ。
……そりゃこの子も俺からのキスを嫌がるよね。
感情を知って恋をしたいっていう俺の気持ちだけで、好きでもなんでもない男の相手をさせられて。
「…今まで、ありがとう」
カフェ内にいる客たちの歓談や雑談にまぎれて放たれた童磨の言葉に、仏頂面を崩さなかった恋人が驚愕に歪む。
「…お別れしよう」
淡々と別れることを告げる童磨に、しばらく呆然としていた恋人がハッとなり、そうか、お前の顔を見ないで済むと思うと清々すると言い置いて席を立つ。勿論食事代などは置いてはいないが、元々ここの食事代だけではなく全てのデートにおいて飲食代を持っていた童磨にとって些末なことだった。
「……あっけな」
急に席を立って出ていった恋人に気づいた数人がチラチラと童磨が座るテーブルを見やるが、彼は特に悲しむ素振りを見せずにいるため、つまらないと言わんばかりに自分たちの世界へと戻っていく。
恋人が座っていた席の料理が綺麗さっぱり空になっているのが、今までの自分たちの関係性の希薄さを改めて突き付けているかのように童磨は思った。
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