花闇獄での邂逅録 - 1/3

耳鳴りがするほどに恐ろしいほどの静寂の中で、彼はパチリと目を醒ました。 寝ることを必要としない身体にとって、気を失うことも目覚めるために閉じていた目を開けるという行為も百年以上ぶりではあったが、意識は混濁するどころか冴え冴えとしている。 うつぶせで横たえていた身体をゆるりと起こし上げ、周囲を見渡す。 目に映る景色は、黒と灰色のグラデーションがかるもので、時折ゴゴォ…と何かが燃え盛る音が聞こえる。

…ああ、ここは地獄か。

寝起きとは思えないほどハッキリと彼はその事実を理解した。そして己自身が誰であるのかも。

「…猗窩座…」

不意に彼は名前を呼ばれて、声がする方向を見上げる。
確実に、今の今まで何もなかった空間に、道義を身にまとった黒髪の短髪の筋肉質の男と、それに寄り添うようにくっつく瞳の中に花のある少女の姿が現れており、鬱金色の瞳はそれを捉える。

猗窩座、それが彼を冠する名前であった。

花闇獄での邂逅録

自分を鬼にした始祖・鬼舞辻無惨の根城である無限城にて。
鬼狩りとの戦いで、”狛治”として生きてきたかつての記憶を取り戻した彼は、自身の身体の再生を拒み潔く自滅を選んだ。
しかしそのまま猗窩座は狛治として地獄へ逝くことはなく。人としても罪を重ねて鬼へとなった狛治は、人としての罪をあがなうために猗窩座の中から分離したのである。

「…俺はこれから罪を贖う」
ぎゅ、と拳を握り締めながら狛治は未だ床に腰を降ろしたままの猗窩座を見下ろしながら言う。その横にはもう決して離れまいとして佇む恋雪も小さく頷いた。
狛治とて愛する者を地獄に伴うのはとんでもないと最初は断っていたが、恋雪は頑として彼の傍から離れなかった。

「止められなかった私も同罪です。それに…、私たちのためにそこまでして下さったあなたの行動を…、嬉しいと思ってしまったのもまた事実なのですから…」

恋雪の独白に狛治は思い切り目を見開く。清廉で可憐で純粋な彼女にある人として生々しい負の部分がさらけ出されたことによる驚きと、あと一つ。
「幻滅、しましたか…?」
「するはずがないじゃないですか…!」
不安そうに見上げる恋雪を狛治は思いきり抱き締めた。幻滅などするはずがない。
将来を共にする妻として迎える彼女に対して狛治はどこか神聖視しているところがあった。罪人である自分を受け止めてくれたばかりか、こんな自分を好きだと言ってくれた彼女は、人間ではなくて女神か天女だと思っていた節があった。
だがそれは違うのだと他ならない彼女の言葉ではっきりと理解できた。ああ、彼女もまた自分と同じ仄暗く生々しい感情を持ち得る人間であったのだ、と。

「私は狛治さんが好きなのです…。どうか地獄へ連れて行ってくださいませんか?」

その言葉にますます恋雪の身体をかき抱く狛治の腕に力がこもるのが分かる。もう離れたくないと思う彼の気持ちは、人格が分かたれたはずなのに猗窩座にも伝わってくる。
本来ならば不遇の死を遂げた愛する人を地獄へ誘うなどとんでもないことだ。
だが己ももう一人の己も罪を重ね過ぎた。まっとうにやり直す機会を悉くドブに投げ捨てた真人間とは程遠い人種だ。

どうせ人は多かれ少なかれ罪を犯しているため、地獄へ堕ちるのは避けられない。ならば愛する人の身を案じるよりも、愛する人に共に堕ちてもらいたいと思ってしまうのも致し方がないだろうという開き直りから、狛治が恋雪を道行にするために肩を抱き寄せるのを、猗窩座はただただ見つめていた。

「そうだ…」

ちらちらと暗闇の向こうから漂い始める炎の色と肌を舐める熱さが伝わる中、踵を返した狛治が猗窩座に言う。

「狛治としての俺は先に逝くが、お前はまだここで待っていろ」
「…ああ」

おおよその予想はついていた。
”狛治”と”猗窩座”が分離する必要性。お互いに犯した罪を別々の個体で贖う以外の理由。

狛治には待つ者がいた。
恋雪を始めとする、恋雪の父であり己の師範である慶三と、自分自身の父親が。

そして猗窩座には、待ちわびる者がいる。
無意識のうちに、ずっと忌避し続けていた、彼を。

鬼となり、戦いをすべてに費やしてきた修羅なる自分が心を残す者など誰もいない。生きている最中は確かにそう思っていた。
そんな猗窩座の気持ちは筒抜けであるが故、狛治はふ、と悲しそうな笑みを浮かべてこう続けた。

「失いたくなかったのだろう?」
そこに感情が見えずとも、己を気にかけていた、”俺”よりも強かったあいつを…。

──…そうだ、俺は、アイツを…。

漠然とした嫌な感覚だけが常に付きまとっていた。

ただの鬼から上弦の弐まで上り詰めた異質と言える鬼。
弱者であったはずの彼奴が、上弦の弐であった俺を打ち負かしその上に立った際、どうしても嫌悪感がぬぐえなかった。
弱者は嫌いだ。しかし、俺を打ち破った彼奴は紛れもなく強者だ。
なのになぜあんなにも苛立ちを覚えていたのか?
己が彼奴に敗けたことは紛れもない事実だ。
己の敗北をしかと受け止め、もう一度弐の座を取り戻すために技を磨き血戦を申し入れること。
それこそが己のなすべきことだと分かってはいても、抱いた感情を取り除くことは終ぞ不可能だった。
弱者は弱者のままでいろなどという考えこそ思い上がりに過ぎない。
腹の立つ性格ではあっても、その実力を認めない理由にはならない。

 

ただただ付きまとう、嫌な感覚の正体を知ることもなく知る由もなく、俺はひたすらあいつを拒絶し続けてきた。

 

何もかも終わった今になってようやく理解できた。
狛治の記憶を取り戻し、分離したことで、なぜ猗窩座である俺が、あんなにもあいつを忌避していたのか。

強くなっても、不意を突かれれば命を落とす。
これ以上、己に関わった強者を失いたくないだけだったのだということに。
それを突き詰めれば自分自身が弱者であるということを暴かれるのを恐れるが故に。

狛治としての俺が守りたかった存在と、猗窩座としての俺が失いたくなかった鬼。

あるがまま、俺を受け止めようと努力をしていた彼。
自分よりも強いのに、俺に構う彼。

ごつりとした岩がむき出しになり、どこへとも続くか分からない道が猗窩座の前へ伸びていく。
すでに狛治と恋雪の姿はない。

空は赤黒いものへと切り替わり、絶えず変わらずゴォォォオという不気味な音が響いている。

不意に微妙に空気が揺れるのを感じた猗窩座はとっさに両手を前に出したのと同じタイミングで、”それ”は手の中に落ちてきた。
「やあ、猗窩座殿」
ゆるゆると虹色の瞳を開き、猗窩座の姿を認めた”それ”こと童磨は、静かな声でその名を呼んだ。

 

BGM:花闇(ローレライ) ポイピクで書き散らしていた話を加筆修正しました。 私が考える基本設定です。 猗窩座は狛治の記憶から『自分を気にかけてくれた強者は悉く自分を置いて逝ってしまう』という恐れを抱きますが、それはすなわち自分が弱者であることを認めることになるので、その警鐘を上手く受け止めることができず、結果、童磨に対して近づかないでほしいということからあの対応になったというのが解釈です。

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