キスが興に乗ってなのか、何の前触れもなく噛みつかれたときは流石に驚いた。だけど目の前の猗窩座殿の方がもっと驚いた表情をしていたので、ああ、これは彼にとって不本意なことだったんだなと言うのは何となく分かった。
だって目の前の猗窩座殿はとてもとても、自分の方が傷ついている顔をしていたから。
猗窩座殿のすることは〝昔〟から許容していた自覚はある。そうすることが彼と仲良くなれる唯一の方法だと信じて疑っていなかったから。
でも今は違う。彼とは恋人同士なんだ。ずっと一緒に居たいから不満を持っているのならきちんと話し合うべきだ。
「言いたくないなら言わなくていい、とは言わないからね。俺は猗窩座殿と一緒に居たいから何をもってそうしたのかきちんと話して欲しいんだ」
自分の望みを口に出して言う。そうするのは今度こそ独りよがりではなく、末永く彼と共に居たいと思う気持ちからだ。そして彼もまた同じ気持ちでいてくれるのであればきちんと話してくれる。俺の心を弄ぶようなことは猗窩座殿は絶対にしない。不器用なほど真っすぐで良くも悪くも直情的に気持ちをぶつけてくるから。
「…不安、なんだ…」
待つこと数分。やがて猗窩座殿はゆっくりと口を開きぽつりぽつりと話してくれた。
「…うん」
「…お前は、俺以外の奴らと上手くやっていこうと心を砕いていたの、知ってるから」
「うん…」
それはきっと今のことではなく〝昔〟のことも含まれてるのだろう。
「…あの時、あの場所にお前が堕ちてきたのも、俺がいたのもたまたまにしか過ぎない」
震える猗窩座殿の手が、先ほど掴んでいた俺の腕にもう一度触れる。がっしりとした掴み方ではなく、まるでふわふわとしたメレンゲを崩さないように触れるかのようなそんな弱弱しさだった。
「…俺、じゃなくたって…良かったんだ。あんな風に暴力に訴えることしかできなかった俺以外に出会ったってお前、上手く…」
一瞬、何を言われているか理解に遅れた。だがその意味が脳みそに到達した時、不意に息苦しさを感じ、そして徐々に何とも言えないようなざらりとした気持ちが湧き上がってきた。
「何を、言っているのかな?」
本当に、何を言っているのだろうと俺は思った。だって〝昔〟あの場所で出会ったのはまぎれもなく猗窩座殿だ。あの時に出会えて色々話をしたのだって猗窩座殿その人であることは変えようのない事実だ。たらればを考えてしまうのは人として生きている以上は仕方がないことだ。だけど。
「ねえ、それは本気で言っているのかい?」
声が尖ってしまうのが分かる。そんな俺の声にいつの間にか再び俯いていた猗窩座殿が驚いたように顔を上げた。とっさのことで声が出てこない猗窩座殿に構わず、俺は俺の気持ちをぶつける。こんなことを言われて悠長に構えてられるほど、今の俺はおめでたくなんかないんだ。
「俺が心から大好きだと思える相手に出会わなければ良かっただなんて、例えあなたでもそんなことを言われたくはない」
ひゅっと猗窩座殿の息を飲む声が聞こえる。ぁ、とか、ぅ、とか口ごもる猗窩座殿を今度は俺ががっしりと捉えてそのまま壁に反転させた。
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