んよりと垂れ下がったダークグレーの雲から、ぼたぼたと雨が降りしきる。
そんな天気の街中で、アッシュピンクの髪を持ち豊かなまつ毛を持つ青年-頼田猗窩座-は、この日、長年探し求めていた人物をようやく見つけることができた。
背が高く、白橡の癖のある髪。
特徴的な太い眉ときらきらと輝く瞳。
視力がいい猗窩座はその目が虹色であることを認め、間違いなく彼が地獄で邂逅を果たし再会の約束をした人物-童磨-であることを確信し、一気に距離を詰めていく。
距離にして3m、平素なら大した距離ではないが、降りしきる雨と差している傘とまばらな通行人がもどかしく、なかなか距離が縮まない。
あと、2m、1m…もう少し。
「童磨さん!」
しかし不意に聞こえてきたどこかで聞いたその声に、猗窩座の方を向いていた童磨の顔が、不意に横を向く。
「やあやあ遅かったね」
「すんません、電車が遅れちまったもんだから」
「いいよいいよ。じゃあ行こう?」
「はい」
傘を差しているため童磨の相手の顔は見えない。だがまぎれもなく聞いたことがある声だが、今はそれはどうでもいい。
俺の童磨を、一体どこに連れていく──!?
息をするのも忘れ、足も止めていた猗窩座が我に返り、現れたばかりの男と連れだって歩こうとする童磨の腕に思い切り手を伸ばす。
「いっ!?」
黒のステンカラーコートに包まれた腕が、猗窩座によって引っ張られ、童磨は驚きに満ちた声を上げる。
「童磨!」
矢も楯もたまらずに猗窩座は彼の名を呼ぶが、腕をつかまれたままの童磨の表情はキョトンとしており、その虹色の瞳は明らかに困惑の色を宿していた。
「え、っと…、君は、誰だったかな?」
「は…?」
覚えて、いない──…?
だって、約束したのに。
地獄で邂逅したとき、お前と新たに関係を積み重ねていきたいって言った。
お前もそれに了承しただろう。
なのに、なんで、なんで?
「おい」
するとその時、童磨の横にいた連れの男…声からして猗窩座よりも若い…が、くるりと振り向く。その顔を見て猗窩座は驚きのあまり目を見開いた。
「あんた、何気安く童磨さんに触ってんだああああ?」
「…おまえ、妓夫太郎…?」
「ああ、そうだ。あんたの知ってる”あの”妓夫太郎だああ」
妓夫太郎…かつて上弦の陸だった頃の童磨が鬼にした人間の兄妹の兄の方。
人間たちから疎んじられ殺されかけ、妹は生きたまま火だるまにされ、そして兄の方も斬り殺されかけた際、通りかかった童磨によって血を与えられ、上弦の陸まで上り詰めた鬼。
「え、妓夫太郎君の知り合い?」
片や驚きとショックのあまり呆然とする元上弦の参、片や思わず口を突いて出た猗窩座の言葉をあっさりと肯定し、さりげなく童磨の前に歩み出た元上限の陸。
その中に漂う不穏な雰囲気をものともせず、気の抜けた元上弦の弐の声が響く。
「あ、そっか! 君、急いでいたようだし妓夫太郎君と俺を間違えちゃったんだね」
ニカーッと笑いながらそう結論付けた童磨に対し猗窩座は言葉が出てこない。
完全に彼は猗窩座のことを覚えてはいない。
その代わり、妓夫太郎は猗窩座のことを覚えている。
「妓夫太郎君、積もる話もあるんだろうから、俺一人で行くよ?」
「や、いいっすよ、別に」
そう言いながら妓夫太郎は童磨の腕をつかんだままの猗窩座の手首をがしりと掴み、無理矢理に引きはがす。
「でも、久しぶりに会ったんだろ?」
「童磨!」
虹色の瞳にはどこまでも自分の姿は映らない。代わりにかつて拾った養い子も同然の元鬼を慈しむ目で見ている。
「ん? って、え? なんで俺の名前…あれ? さっきも呼んで」
「童磨さん」
再び猗窩座が童磨の名前を呼ぶも、またもや妓夫太郎が絶妙なタイミングで割って入ってくる。
「悪い、やっぱり一人で行ってくれねぇか?」
「うん、いいよー♪ 妓夫太郎君もゆっくりしてきなね? 梅ちゃんには上手くいっておくからさ」
「すまねぇな童磨さん、恩に着る」
じゃあねーと、まるで子供のようにこちらを向いて腕を振りながら駅の方へ戻っていく童磨を見送り、妓夫太郎はいまだ呆然と突っ立っている猗窩座の方へと向き直った。
「…あんた、何のつもりだあ?」
ギロリ、と下から睨めつける鋭い目。こんな目線を当然ながら上弦時代は向けられたことなどない。
「おま、えは…記憶、ある…?」
「はっ! 上弦の参サマも形無しだなああ。だが俺は優しいからなあ答えてやる。あるよ」
あえてかつての上弦の弐の物言いを真似たのだろう口調。しかし答えずとも今までのやり取りから妓夫太郎に記憶があるのは明白だった。
「んなことよりもだ。童磨さんにどの面下げて会いにこれたんだああ?」
「っ、それは…!」
「あの人のやることなすこと気に食わなかったんだか何だか知らねえが、ろくすっぽ話も聞かずにボカスカボカスカ殴りやがって…!」
完全に敵を見る瞳で妓夫太郎は猗窩座を見やる。
かつての猗窩座が”呪い”によって童磨を忌避していたことは、当人にはもちろん、妓夫太郎や堕姫を始めとした鬼たちは知る由もない。だから妓夫太郎にとってみれば猗窩座は恩人を理不尽に殴りつける鬼でしかなかった。かつて自分たち兄妹を虐待し、迫害していた人間共のように。
「確かに童磨さんにもうざいとこはあったよ。でもなぁ、それでもあの人はちゃあんと話を聞いてくれる。手を差し伸べてくれる。虫けらのようにくたばりかけた死にぞこないにもなあああ」
話が通じないと思ったことは多々あったが、根気よく話せば分かってくれた。更に言えば、彼が妓夫太郎と堕姫兄妹を助けたのは純粋なる善意であり事実である。
そんな善意を惜しみなく与えられ、鬼としての力や狩りの仕方も教えてもらい、入れ替わりの血戦で手順を踏んで彼らは上弦の陸へと上り詰めた。その時すでに童磨は上弦の弐であり、地位の差は開いたものの妓夫太郎は勿論堕姫だって内心で童磨を慕っていたし、彼のようにあの方のお役に立ちたいとずっと思っていたのだ。
そんな童磨を、自分たちと同じように入れ替わりの血戦を申し込み序列が入れ替わった恩人を、この鬼は腹いせに手をあげ続けてきたのだ。当の本人はまったく気にしてはおらず、上弦の壱が何度も窘めているのを見ても、話す努力すらせずに序列が上の鬼の顎を頭を肩を腹を、まるで蚊蝿でも潰すかのように叩きのめしていたという事実。
「あんたにとって強者は、自分よりあと一歩劣る奴らのことを言うんだろお? 弱者は弱者のまま地べたを這いずり回ってろ、弱者が自分より上に行くのは許さねえ、それが本心だったんだろぉお?」
猗窩座は何も言えなかった。かつて上弦の壱の次席にいた自分を打ち破ったのは、元を正せば上弦どころか下弦入りもしていない単なる弱者でしかない鬼だった。そのうち鬼狩りにやられると思い込んでいた鬼が、あれよあれよと人を食らい入れ替わりの血戦を申し込み、のし上がるなんてことは、当時は前代未聞のことだった。
そして猗窩座自身も童磨との血戦により弐の座を明け渡している。しかもその勝負は無惨と黒死牟の立会いの下、正式な手順に乗っ取ったものである。自身の得物と力の特性を知り尽くし、猗窩座の猛攻を交わしながら自身も攻撃に転じる。正々堂々真正面からぶつかり合うだけが戦法ではない。時には裏をかいたり搦め手を使うのも戦術の一つである。それを童磨は駆使しただけで、何一つ責められる謂れも落ち度もない。
「それにあんたは女を喰うあの人を毛嫌いしてた。喰えねえもんを無理に食わせてたっつうなら、そりゃあの人が悪いよ。だけどなぁ、あの人はただ口出しをしただけだろおお? それすらもあんた、気に食わねえのか知らねえが殴って黙らさえてたよな? それにその分たらふく男を喰ってたあんたが高潔ぶってあの人を見下す道理はどこにもねえよ」
序列などもう関係ない。地獄で罪を償ったから何だ。そんなものはこちらだって同じだ。
今生で出会ったあの人には記憶がなかった。それでも前世と同じように家庭環境が最悪だった自分たちに手を差し伸べてくれて、正式な手続きを経て養子になった。鬼でも人でも童磨という存在は、真に困っている人間、弱っている人間を心から助けたいという本性の持ち主であるということを妓夫太郎はこの時改めて知ったのだ。
だからこそ、自身の弱さを認めないがゆえに”呪い”が発動した状態に陥っていたとはいえ、落ち度はあったにしても話すことを徹底的に放棄して一方的に暴力をふるっていた元上弦の参が記憶のない童磨に近づくのは、妓夫太郎にとって耐えがたいことだった。
記憶がなくても間違いなく童磨は猗窩座が距離を詰めれば受け入れる。よしんば童磨に記憶があったとしても、猗窩座から受けた仕打ちを本人は何とも思っていないのだからさらりと水に流すに違いない。
だけど妓夫太郎はどうしても許せない。記憶のない童磨の大らかさに土足で踏み込み胡坐をかいて居座られることも、過去に猗窩座が童磨にしてきた仕打ちも全て。
「…わかったらもうあの人には近寄るなよなああ」
何も、猗窩座は言えなかった。
地獄で邂逅した。罪を償った。交わした再会の約束を果たした。
だけどそれ以上に、自分は童磨を痛めつけてきた報いを償いきれなかった。それだけでしかない。
「っ、わか、った…」
壊れるほどに傘の柄を握り締めた猗窩座は踵を返して引き下がる意を示す。
そんな潔さを、”昔”に、あの人に見せていれば。
もしかしたら覚えていたかもしれねぇのになああ──…。
それでも己と梅からしてみれば、あの元上弦の参は恩人を痛めつけてきた許しがたい人物には変わりはないけども。
遠ざかっていく後姿を睨みつけながら妓夫太郎はふとそんなこと思ったが、その考えを振り払うようにスマホを取り出し、通話アプリを起動させる。
「あ、もしもし童磨さん? うん、もう終わったから。今から帰るなああ。え? 電話してきた理由?
…なんとなく、だよ」
コメントを残す