純越悲境~前編~






あの日、あの時あの場所で・・・。
幼い彼の足元に転がるのは、物言わぬ二つの愛すべき者だった物。
幼い彼の目前に広がっていたのは灰色の絶望と、新たな青銀の希望。
信じていた世界はあっさりと彼を見限り、それと同時、怖れ慄いていた世界は彼を受け入れた。
新たにこの世界の同胞となった彼は目覚めたのだ。
今までの自分は死んだ・・・いや、殺したのだと強く思い込むことによって。



純 越 悲 境

-前 編-



「ぎゃあぁあーーっ!!」
外界の清んだ青空とそれと同化するほど鮮やかな緑溢れる森林地帯。
そこに似つかわしくない、何時までも跡を引く、聞き苦しい耳障りな叫び声が辺りに木魂する。
「助かりたいのか?」
均整の取れた幼さを残した顔立ちの少年の、それに映える金色の瞳が、冷え切った眼差しで血みどろでのた打ち回る男を見下ろしていた。
銀色に煌めく無造作に伸ばした髪が死臭を含んだ風によって靡いている。
無常に響く声とは裏腹に、子供が持つ特有の邪気の無い悪意に重ねられた、圧倒するほどの怒りを含んだ殺気が全身から放たれている。
その少年の左に傅くように座るのは、青銀色の狼。
そして青銀の狼と少年を取り巻くのは、銀狼の配下である無数の狼の群れ。
「助けて欲しいのか?」
既に、すぐ傍で事切れている仲間数人と共に来ていたこの男は、無残にも狼に食いちぎられた無くなった腕を押さえ、のたうつのを忘れがたがたと脂汗を流しながら震えていた。
「た・・・、助けてくれっ!・・・頼む・・・!!」
ぜえぜえと、横たわった全身で息を吐きながら、男は目の前に立つ少年に助けを請う。
必死でこの冷めた瞳の、化け物じみた少年に圧倒されつつ、頭の片隅で何故こうなったのかを自問自答しながら。


アスガルドの民達の中で、広く知れ渡る事となったあの悲劇。
かつての名門の若き当主とその美しい妻と子息が、遠乗りに出かけた先の森で、グリズリーに襲われ惨殺された痛ましい事件。
いや、厳密に言うと確かに息絶えたのは妻だけ、果敢に獰猛な獣に向っていった親友である当主と、幼かった子息の生死は誰も知る由は無かった。

『お願い!待って!!』
『パパとママを助けて!!』

少なくとも、後ろを振り向かずに逃げ帰る自分達の背中に悲痛な助けを求める声だけが突き刺さっただけで。
そしてその数日後に、彼は結局殺されて、妻共々死体が確認されたが、その傍にあるはずの息子の死体だけが見つからないと知ったとき、初めて彼はうろたえた。
きっとあの子供は、成仏できずにあの森を彷徨い続けている。
いや、きっと我等に復讐を果たしに来る。
自分達の為した非人道な行動に怯える一方、だがあれは仕方が無かったのだとあの時の行動を正当化しようと叱咤する日々。
何もかも手につかず、荒れ果てていく日々の中、ついには安らげるはずの眠りすらも奪われた。
血まみれになりながら、それでも小さな手を必死に伸ばし、追い求めてくるあの幼子の悪夢。
汗だくになりながら跳ね起きてから、耳の中に残るあの悲鳴。

もう限界だった。
繰り返す逡巡の悪循環を断ち切るため、いや、この目であの子供の骨の欠片だけでもいい。
それを発見して、花の一輪でも添えてやれば、この胸の中に巣食う、罪悪感から見る悪夢から開放されるかもしれないと、やはりあの記憶に苦しめられている仲間達とこの現場へと赴いたのだった。


しかし彼等を待っていたのは、狼の群れの死の歓迎だった。




「助けて・・くれ・・・、助・・・・。」
閉じかけていく意識をこじ開けながら、助かりたいという一心で、死に掛けの男は人狼に縋るように手を伸ばす。
しかしその時、死に逝く脳裏の中、駆け巡る記憶の糸車が、ある一点で動きを止めた瞬間、男はかっと目を見開いた。
「!!」
そして、悪魔に背筋を撫ぜられたかのように死の寒さとはまた違う悪寒が全身を駆け巡った男の顔は、見る見るうちに恐ろしさに青ざめ歪んでいった。
「お・・・お前は・・・おまえ・・・。」
目の前にいる、自分の命の綱を握る少年と、彼の中で消えることの無い泣き喚く幼子の面影がこの時ピタリと重なり合う。
気狂ったようにわなわなと唇を震わせながら同じ単語を繰り返し紡ぐ男を冷ややかに見つめたまま、人の形の狼・・・否死神は、最後の鉄槌を振り下ろした。
「今更、どの面を下げて、土足でこの森に入り込んだ?」
金色の瞳に宿るのは、人の物とは思えぬほど暗く濁った鋭い影。
そして、少年の言葉が主の命令として受けた狼達が、容赦なく男に襲い掛かっていく。
全身を食いちぎられ、最後の最後まで恐怖に慄いた叫びを上げながら、許しがたい罪人の最後の一人がこの世から去った。
彼等が持ってきた花の束は、無残にも狼達の牙や爪でずたずたになり、少年に踏みつけられて散らされて行き、皮肉にも肉塊となった自分達の鎮魂を為すべく物と化した。
「ギング、程ほどに喰い上げてから戻って来い。」
これ以上、薄汚い忌々しい存在を眼にするのは耐えられないと言う様に、くるりときびすを返し塒に戻る、若き主にして愛しい我が子を見送った青銀の狼-ギング-は、 自分の配下である狼達に、この愚かな贄の後始末にかかる様にと咆哮を上げた。


数年前、この森で起きたある悲劇。
野生のグリズリーに、アスガルド屈指の名門の一族がその手にかかり命を落とした。
若き当主とその美しい妻の死体はその後、発見されたのだが、幼かった子息のそれだけはどうしても発見には至らなかった。
その為、この森の中には未だ成仏できない子息の亡霊が、生贄を求め徘徊していると言う噂が人々の間に流れ、決して滅多な事では近づこうとはしなかった。
だが、その幼子は殺されてなどおらず、ましてや亡霊になどなってもおらず、青銀の狼達の庇護の下、辛くも生き延びていた。
しかしこの子供は、一度殺されたも同然だった。
他の何者でもない人間達の手によって、非力な彼をそのまま食い殺される状況のまま、置き去られて見殺された人間の子供は、人間に忌み嫌われて怖れられる狼達によって救われ、野性と共に生きる者として生まれ変わったのだ。

フェンリル――。

正にその名に相応しい者として――・・・。


「ギング・・・。」
空腹を満たし、先に塒へと戻って行った主を見つけたギングは優しく目を細め、すらりと足を伸ばし寝転がるフェンリルの頬に濡れた鼻先を擦り付けながら、毛皮に覆われた体をくっつけて行く。
今は火も焚いておらず、しなやかに柔らかくも強靭なばねの様な身体に身に纏うのは、ボロボロに擦り切れた衣類だけだが、ギングの体温だけで、充分身体は温まり心地良く感じる。
なだらかな斜面に、密集して聳え立つ木々の根元に自然に出来た洞穴の塒の中は、小柄なフェンリルと身体を伸ばしきったギングがぴったりと入るくらいの広さだった。
そしてそれを取り囲んで見張るように適度な距離を保ち、警戒して眠るのは自分の配下であり、大切な家族である狼達。
「ギング・・・・・・。」
半ばうとうとし掛けながら、青みがかった銀色の毛並みを優しく撫でながらフェンリルは年相応の少年らしい笑みをギングに向けた。
それは、昼間にかつて自分を見殺した人間達を、狼達に無情なまでに屠らせた表情とは一転して。
クーン・・・とギングもまた、鋭い爪や牙で人間達を切り裂き殺したとは思えぬほど、静かに安らいだ様子で、主にすりよりその頬をぺろりと舐めた。
「はは、くすぐったいよギング。」
そう無邪気に笑いながら、フェンリルは更にギングにぴったりとくっ付いて、逞しい首と胴に両腕を回し、ぎゅうっと抱きしめた。
「ずっと一緒だ・・・。ギング・・・。」
大好きだよ・・・。

人に裏切られ、人に絶望した子が、唯一生きていける場所。
人に見切りを付け、人から捨てられた異端者を守り育ててくれた、大切な者達。
その中に入り込む者に、俺は容赦などしない。

慈しむように、労わる様に抱きしめていた幼い人狼は、金色の瞳をかっと一瞬見開いた後、甘えるように毛皮に顔を埋めながら、ぎゅっとその手に力を込める。


悲劇の魔の森に住まうのは、悪霊でも亡霊でも何でもない、優しい絆とそれを守る為に蹲る狂児。
それは何者にも冒しがたい彼等の聖地であった――・・・。



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