囲女~婀娜ざくろ~ 其の壱拾



朧の雲が霞む満月の夜。
花街が始まる時刻の最中、彼は、永遠の約束を誓ったはずのあの白い草原の丘に佇んでいた。
その手には、僅かばかりの荷物を持ったまま、ただ一人の者を想い、瞳を伏せる。
「こんな日には、些か不似合いな演出だ・・・・。」
自分の元に月光を降り注ぐ満月を見上げながら、自嘲的に笑った。


囲 女~婀 娜 ざ く ろ~
- 其 の 壱拾-



シドを手放したあの日から、バドはその空虚を埋めようと館を守り続けようともがき続けていた。
だが、夜が訪れるたびに、掻き毟るほどの胸の痛みにその眠りは妨げられる。
夢に見るのは、どうにもならない想いの為に、捨てた想い人の悪夢
兄様・・・にいさまと、無邪気に微笑みかけ、掛けてくる遠いあの日の弟の姿。
兄上・・・と、はにかみながら、傍にいた成長した弟の姿。
そして・・・。

私が・・・自ら望んだ事です――・・・・・。


何時もそこで、はっと目が醒め、上体を起し溜息を吐く。

一線を越えていったあの日から、兄弟になど戻れなくなった関係。
想いを口にすることなど絶対に出来ぬまま、愛憎だけを孕んだ心で、幾度と無く弟を組み敷き汚して行ったあの夜毎の時間。

かたん・・・と、部屋の戸を開けて、闇の彼方に伸びる廊下を歩いていき、既に主の居ない部屋に辿り着く。
から・・・と戸を開けて、中を見渡してみても、もう何一つ彼の面影も残り香も微塵も無い。
その室内の窓からは、月光だけが入り込み、窓の格子と、立ちすくむ自分の姿を照らし出すのみだった。

通常、身請けをした女郎は、かつての見世に足を運ぶことはない。
否、運ぶ事はおろか、自由に出回ることすら出来ない。
新たな主の下で一生を飼い殺されるのが、楼主と顧客との暗黙の了見であって、もしも逃げ出て見つかった場合、その女郎はもっと酷い目に遭わされるため――。

籠の中の鳥は所詮捕らわれ続ける運命。
身請けと言う名の檻の中、一生捕らわれ続ける鳥。

『シド・・・・。』
その捕らわれの檻が、ただ自分の腕から他人に変わっただけでしかないのだ・・・・。

『シド・・・・・・・。』
ズルズルとその場に崩落ちて、項垂れるバドの呟きは、もう決して届かない。

それから幾日が流れたある日、バドはある決意を固める。
この見世を閉めて、どこか知らない土地へと旅立つことを。
残っていた全財産を、女郎達に課せられた借金に充て、その身を解放してやる事を。
彼女達は、この若き楼主の決断に涙を流し歓喜し、感謝の言葉を述べて次々と自由の空へ飛び立っていった。
彼女達は、バドのことを神と言う者も居たが、バドはその言葉に苦笑を漏らすだけだった。

『俺はそんなに慈悲深くなど無い・・・。』
誰も居なくなった館で一人ポツリと呟く。
『もっと早くにこうしていれば良かったのにな・・・・・。』

そうすれば・・・・・。

そしてそれは皮肉にも、シドが身請け先で彼らに組み敷かれた後、密談をこしらえる卑劣な企みを立ち聞きしている時刻と同じ頃だった――。



昼と夜の時間が逆転するこの街に、人々の欲望と女郎達の魂が花開くように、ぽつぽつと灯される光。
小高い丘の上から眺めるそれは、雲にさえぎられて尚、光を放つ月と比べ、酷くちっぽけな物だった。
「俺は・・・・、一体あの場所で何を守りたかったのだろうな・・・・?」
そのひどく脆い、人工の手で織り成された、あの世界の社会と柵(しがらみ)の中、欲しかったものは得たものは一体何だったのか――?
築き上げた先代の地位と、それを守る為の取り巻きとの上辺だけの付き合い。
人の一生を金で買い、その命を食い物にしてまでそんな世界を守る為だけに、たった一人の大切な想い人を汚し、傷つけ、挙句の果て自らの想いを捨て去るだけの為に、弟を売り渡した結果がこれだ。
「もっと早くに気づいていれば・・・。」
両手を胸の前に翳し、目を落とす。
「全てを捨ててお前と向き合えたのかな・・・?」
しかし全てを捨てた今現在、自分は弟をこの手で触れることはおろか、一目見ることすら叶わないのだ。

だから、今夜この町を出る。
何も誰も、自分を知らない土地へ。
過去の幸せな時間も、思い出のこの丘も、彼を愛していた事等、微塵も結びつかない遠い地へ・・・。


未練がましく大地に張り付く足を、一歩踏み出して歩き出そうとした時だった。
「?」
眼下の町並みの一角から異変を知らせるかのようなどよめく人々の動きが、バドの視界に入り込む。
人々が走って行き、一定の場で止まり、そしてまた人が訪れるそこからはもうもうと煙が立ち上がっている。
凝縮された街並みの中に、元々自分がいた館の目星をつけて、大体の位置を把握した時、バドの背中に嫌な汗が伝った。
「あれは・・・っ!?」
その次の瞬間、矢も盾もたまらずにバドは、大地を蹴り、手にしていた荷物を放り出し、その場所を目指し走り抜けて行った。


息せき切らせて馴染み深い、この界隈に辿り着くと、ざわめきながら行き交う人々と同じ方向へと、更に勢いまして走り続けた。
広い大通りの中、他の通行人に肩をぶつからせても、謝る手間も惜しく、ただひたすら目的地を目指す。
この先の道を行けば、何度も父親に連れられていった事のある、あの憎き男の屋敷がある。
そしてたった一人の弟を手放して、新たに閉じ込めてしまった場所でもある。

やがて、バドの目の前には、人だかりが立ち塞がっており、悪寒めいた予感は確信に変わった。
野次馬を跳ね除けて、その最前列に辿り着いた彼の目に映ったのは、紅蓮の火に包まれたあの男の所有する離れの家屋だった。
「シド!」
たまらずに名前を呼んで、その燃え盛る炎に飛び込まんとするバドの姿を目に留めた火消したちは間髪居れずにバドを押さえつける。
「何をしているんだ!?危険だから下がっていろ!!」
「うるせぇっ!離せ!!」
男二~三人がかりで押さえつけれながらも、それでも必死にもがいて抜け出そうとするバドの瞳に、燃え尽きて落下する家屋の一部が目に入ってきた。

「っ!!」
「あっ!?」
その瞬間、バドは渾身の力で男達を押しぬけて男達を振り払う。
「待てっ!待ちなさい!!戻って来い!!!」
男の怒号が背中を押すかのように、バドはその炎の中へと入り込んで行った。


「シド!シドーッ!!」
もうもうと前方から迫る熱気と赤く染まる視界のため、息苦しさと眩暈が襲い掛かる。
既に家の全体までに火の手が回ろうとしている為、出火元は火の海になっているだろう。
ここに間違いなくシドが居ると、理性よりももっと深い、本能で察したバドは、息苦しさに手元で口を覆いながら、着物を翻しながら廊下を駆け抜けて行く。
突き当りを左に曲がるまでの廊下の距離でさえ、炎が齎す蜃気楼の中、数千里にも感じられたがどうにか辿り着き、更にシドを捜そうと先に進もうとした。
「――!!」
その先に見えたのは、不自然に開いた二つの部屋の扉。
その隙間からほんの僅かにはみ出した着物の袂を、見逃さずにバドは一気にその元まで駆けて行った。


燃え移った白い絨毯は、既に火の海と化しながら、横たわる白い麗人の肌を焼こうと、その包囲網を狭めていっていた。
そしてその隣には、とっくに逝き果てた身体がしどけなく転がっている。

その中でシドは、迫り来る死の勧誘を受けんがため、静かに閉じている。
彼の人に見捨てられたあの夜から、自分はもうとっくに死んだものだったのだ。
息苦しさも、火の熱さも、家屋が焼け落ちる音も、全ての感覚が遠のいていき、そのまま意識を手放そうとしたその時だった。

「シド!」
――ぇ・・・?
「シド!しっかりしろ!!」
――嘘だ・・・・?
どうして貴方がここに――?

朦朧とする意識に入り込んできたのは、一時たりとも忘れる事のなかったあの人の声だった。
それでも目蓋を開く事を拒否していると、身体を強く揺さ振られた後、両頬に軽く衝撃を与えられる。
「・・・・ぅ・・・。」
ゆるゆると瞳を開いて行くと、そこには一面の紅い色彩の中、今にも泣き出しそうでいながら、必死に自分の顔を覗き込む最愛の兄の姿があった。
「・・・・・あ・・・・。」
あにうえ・・・・?
そう呼ぼうとしたシドだったが、幾分煙を吸い込んだため、声にならず、一気にゴホゴホと咳き込んだ。
「しっかりしろシド!!」
「ど・・・して・・・・?」
どうしてここに・・・・?
だって、貴方は私を捨てたのではなかったのか?
あぁ・・・そうか・・・。
これは幻影なんだ・・・・。

そう考えたが至った時、動こうとしなかった鉛の様に重く感じた身体の一部分に神経を集中させ、その手をゆっくりと持ち上げることに成功する。
そして、細い息の下で、今際に伝えたい言葉を絞り出そうと、ひゅうっと息を飲んで、一言ずつ慈しむかの様に放たれた言葉。

「愛して、います・・・・。」

抱かれるたびに、零れてしまいそうだった感情。
届く術が無いのなら、せめて身体だけでも繋ぎとめたかったほどに、抱いた想い。
最期だからと、全て燃え落ちて行く中だからこそ、ずっと伝えたくて、でも伝えられなかったたった一つの言葉が、ようやく形になった事に満足したシドは、 またゆっくりと目蓋を閉じようとする。
だが、その刹那、唇に不意に温かい感触が押し当てられ、一瞬の後に離れた矢先、不意に抱きしめられる感覚がシドを包む。
「え――・・・・?」
今度こそはっきりと瞳を開くと、そこには紛れもないバドの顔があった 。
「あ・・・・・。」
その表情は、あの日を境にして自分に見せていた冷たいそれではなく、かつての幼い頃の様に見た、優しい眼差しを揺らめく夕日色の瞳に湛えたものだった。

「俺もだよ・・・・。」
その言葉は、嘘偽りの無い、バドの中の真実だった。
腕の中にいる、大きく見開かれるシドの瞳を、バドはそのまま見つめ返す。
「俺もお前を愛している・・・・。」
もう全て捨ててきた。
身分も肩書きも何もかも。
欲しい者、守りたいものはたった一つ・・・。

ガラガラと真っ赤に燃え落ちて崩れて行く音が轟く中、その言葉は確かな色彩と音になりてシドの中に入り込む。
「ほ・・・んと・・・?」
「あぁ・・・・。」
呆然としたまま見つめ返すシドの視線をバドは真っ直ぐに受け止めながら、その華奢な身を横抱きに抱え上げ、またシドも、もう離れないかのようにギュッとその首に腕を回した。
そしてそのままわき目も振らずに一気に来た道を戻って行った――。


「出て来たぞ!!」
ワァーッと、歓声にも似たざわめきを上げる人々の中、シドを抱えたまま崩れ落ちたバドノ身体を慌てて火消したちは支えにかかる。
シドの方は、脱出するまでに再び意識を失っており、長い事屋敷の中-しかも出火元-に篭っていたのもあって、すぐさま医者にかかる事となった。
そしてバドの方も、生身のまま火の中へ飛び込み、同様に意識を失ったため、医者にかかる必要があるとのことで、駆けつけた医師団の元、近くの救護施設に運ばれることとなった。
その際にも、二人の表情は至福に満ち、身体は抱き合ったままで、互いをしっかりと離そうとはしなかった――・・・。












そしてその数日後・・・。
二人が運ばれた建物に、二~三人のいかつい人物がバドの元を訪れる事となる―――・・・・。





続く




戻ります。