囲女~婀娜ざくろ~ 其の伍-



時は二人の想いを飲み込んで、着々と廻り続けていく。
決定的な決裂を、他でもない彼等自身の手で選ばせる為に――。



囲 女~婀 娜 ざ く ろ~

-其の伍-



無邪気な幼年期を終えた彼等を待っていたのは、目を背けたくなるようなこの世界の現実だった。
特にバドは、本格的な跡取りの手ほどきを始められ、当代の父に色街の現状を見せる為に娼館の主達が集まる会合へと連れて行かれたりと、この世界の常識を隅から隅まで見せ付けられていた。
人の命は確かに金では買えない。
しかしそのような世間一般で用いられるお綺麗な格言は、日の当たる全うな生活を送る者だけにしか当てはまらない。
現にこの界隈では、貧しさの為に僅かな金で売られ、長い己だけにある人生を全て棒に振らされて、不特定多数の人間の慰み者とされ一生を終える者が後を絶つことがない。
金で人の人生は買える。
そしてその人間達の上に胡座をかいて、潤った人生を過ごす世界に彼は居る。

人間が持つ薄汚い欲望と闇が色濃く反映された世界。
だが、この中に身を浸らすのは俺だけで充分だ。
泥を被るのは俺だけでいい――。


傷付きやすく、脆く、そして優しい彼には、この世界は似つかわしくないから・・・。


何も知らなかった幼年期にあの白い草原で交わした真似事の結婚式。
その誓いを証明する物は、無邪気な彼の穢れない唇へ触れた、啄ばむだけの口付け。
成長するに従い、シドに対して持つ感情が罪だと自覚したのは何時の事だろうか?
何のしがらみも無く、この想いを打ち明けてしまえた幼き頃が、最近特に酷く遠く感じる――。


「お帰りなさい。兄上・・・。」
父と共に夜遅くに帰宅する事が増えたバドを、寝ずに待っているシドが出迎える。
疲れたように床に腰を下ろすバドに駆け寄って屈んで、上着を脱がそうとするシドの手を払いのけるように、す・・・っと立ち上がり背を向ける。
「もう遅いから、俺に構わず休んでも良いって言っているだろう?」
淡々としたバドの声。
まるで拒絶するように、背を向けられたシドは、一瞬悲しそうに瞳を見開いたが、それを悟られないように兄に告げた。
「でも・・・、兄上が遅くまでいるのに、私だけ休む訳に行きませんから・・・。」

 兄 上・・・。 

いつの間にか自分をそう呼ぶようになったシドに対して、湧き上がる疎外感。
彼だって、何時までも小さく、自分に守られるだけだった頃とは違うと言うのは頭では理解していた。
しかしバドにとってシドは、何時までも穢れることなく、無垢なままで居て欲しい存在だった。
自分とは違う、白く綺麗なその手が、既にこの世界の垢にまみれて汚れたこの身に触れてしまうことが耐えられなかった。
まだシド本人には伝えられていないが、いずれ自分が跡を継いだ際、シドにはこの界隈を援護してもらっている資産家の令嬢と結ばせると父から聞かされていた。
別に今すぐ如何こうと言う訳ではない。
しかしそれは確実に訪れる未来の話。

そのほうが良い。
このままシドがここに居れば、遅かれ早かれこの世界に巣食う毒に蝕まれてしまうであろう。
ならばいっそ、兄弟としての絆だけを残したまま、シドには何も知らないままここから離れて行って貰えば。
その日までは、この感情を押さえつけて兄として傍にいられるならば・・・。
俺はそれで構わない。
「もう寝る・・・。お前ももう休め・・・。」
立ち止まっていた背中が一度もシドを振り返ることなく、真っ直ぐに自室へと向かう兄を、シドはただ黙って見つめたままだった。


兄上・・・。
そう呼ぶようになったのは何時からだろう・・・?
双子なのに、大きくて逞しくて、いつも自分を守ってくれた大好きな人。
あの日、咲乱れるシロツメクサの草原の中で、唇にほどこされた口付け。
多分気が付いたのはその時。
内包する兄への想いが、兄弟としてのそれではないと。

感情だけを優先させて、無邪気だったあの頃の様に、兄に寄り添う事はもう出来ない事を、成長すると共に知っていった。

それと同時に、私達がどの様な環境の中にいるのかも。
何十人・・・いや、もしくはそれ以上の人生を犠牲にし、それを踏み台にして生きていると言う現実。
そんな世界に、その中心に立つべく修行を貴方が行っている事も・・・。
跡を継ぐのは貴方であって、私は嫡男としての責任も何のしがらみもない。
だけどそう遠くない将来、私と貴方は別の道を歩んで行くことになるでしょう。
それはどうしようもない事。
だって、この想いすら告げられないのに、どうして寄り添って生きて行けようか?
ならば来るべき日までは、貴方の弟としてでいいから、傍にいたい。
どんなに貴方が私の事を疎ましく思っていても・・・。


やりきれない想いを互いに抱え込みながら、徐々に開いていく互いの距離を感じながら、 それでも兄弟として傍にいられるならと。
二人は自らの気持ちを懸命に押さえつけていた。


しかし噛み合わさっていた歯車は、時が運んでくる臭気に耐え切れず、ゆっくりと腐食を始めていた――。

ある日の夏の夕方。
遠くの空がゴロゴロと鳴りながら、灰色の暗雲を伴いながら一雨降らせようと忍び寄ってくる中、シドは盆に冷たい麦茶と甘味物を載せて兄の部屋へと向かっていた。
この日、父と母は出かけており、本格的に主として実践に入る傍ら、寝る間も惜しんで修行に励む兄の身体を心配したシドが、せめて息抜きにと、それらを持って足を運んでいた。
外に突き出ている渡り廊下から眺める外は、ついにぐずつき始めた空が、ポツポツと大粒の雨を零し始めている。
知らず知らず足早に、滑らかな木の廊下を歩いて行くシドの両手に持つ、木の盆の上にあるガラス容器に淹れられた氷が、カラン・・・と涼やかな音色をあげる。
バドの居る部屋の前で足を止めて、戸を開けようと手を伸ばしたその時。

「・・・・~。」
「・・・ッ!・・・。」

何やら声が聞こえてくる。
「?」
もしかして来客中なのか。
それにしても誰かが来たのであれば、兄に引き継ぐのは自分なのだが、今日は誰も彼に引き継いだ覚えはない。
それでも中に人がいるのならば・・・と、引き返そうとした時だった。
「!?」
中から聞こえる声は、単に話し声ではなく、全く違った響きを持ってシドの耳に届きだしたのだ。
それほど大きな声ではないが、耳を澄ませて聞いてみると
荒い息遣いと、女の嬌声。

かたかたかた・・・と、身体の震えが手から盆に伝わっていき、容器に入っている麦茶が僅かに波立っていく。


そのまま引き返せば良かった。
そうすれば、私はまだ貴方をただ想う事が出来たのに――。

それなのに。
その扉を開けてしまったのは・・・。
そうであって欲しくないと言う、僅かな希望と淡い期待のせい。


「!!」
そっと少しだけ開けた扉の向こうで繰り広げられていたのは、男女の睦み事だった。
部屋の真ん中に敷かれる敷布の上で、顔は見えないが女が横になり、その上にバドが圧し掛かる光景。
その背中に白い両腕を回し、高い悲鳴を上げながら、女は歓喜を教え込まれている。

幸か不幸か、彼らはシドの存在には気づいておらず、シドもまた上げかけた声を必死で飲み込み、手に持つ物を落とさぬように、そっとその戸を閉めて、足早にそこから立ち去った。

頭の中が真っ白に焼ききれたように何も考えられないまま、兄の部屋から自分の部屋までがひどく永く感じられた。


ガシャーン!!

ここに来てようやく、先ほど受けた衝撃はシドの脳に辿り着き、取り落とした盆の上の硝子の容器は派手に砕け散った。
ズルズルと膝のから崩れ落ちたシドの焦点の合わない瞳から、静かに涙が流れ落ちる。
「う・・・っうぅ・・・っ!」
ようやく出て来た嗚咽の声。

判っていた・・・。
いや
判っていたつもりだった。

女郎の館の主になるならば、そうした事も避けては通れない。
兄の下にいたあの娘も、つい先日女衒に連れられて、ここに売られてきたばかりの者であろう。

客を取る為に、快楽がどの様なものであるのかを彼女達に教える為に、その身を抱くのも主としての努めであり、割り切らなければならない事は判っていた――。


血の絆だけで結ばれていれば良いだなんて。
嘘だ。
偽善だ。
でなければ、こんなに悲しいはずはない。

私は・・・貴方を・・・。

一瞬だけ垣間見ただけだが、脳裏にはくっきりと焼きついてしまっている。
彼の下に居るのが自分だったら・・・。
「っ・・・!」
そう思った時、シドの身体の奥から絵も知れぬ熱が湧き上がり始めてきた。

「んっ・・・!」
着物の前をはだけ、薄く肉付く白い身体が薄朱に染まっていく。
そしてそのまま、自分の手で熱くなり始めている自身に、おずおずと触れる。
「あぁ・・・っ!」
触れた途端、ビクビクと自身は反応を始め、シドの背中にゾクゾクと味わった事のない感覚が走り抜けた。
「んぁ・・・っ、はぁっ・・・あ」
自然に零れ落ちてしまう喘ぎと共に、欲情の赴くまま、シドは初めての手淫に夢中になっていた。
「あ・・・に上・・・っ、あにうえぇっ・・・!」
壁に背をもたせ掛け、正座を崩した体勢で、熱い吐息を吐き兄を呼びながら、そそり立ち始めた自身の先端に指を絡め、根元を扱き己を高めていく。
『シド・・・。』
瞳をぎゅうっと瞑ったシドの脳裏に浮ぶのは、優しく微笑んでその耳元で己を呼ぶバド。
『愛している・・・。シド・・・。』
低く囁く声は、最も自分が欲していた言葉。
「わ・・・たしも・・・っ」
幻影の兄に抱かれながら、シドはますます手の動きを激しくしていく。
「私・・・も・・・、あなたを・・・っ!」
自らが引き寄せる、初めての快楽の波に思考をさらわれながら、シドはビクンっと身体を震わせて達そうとしていた。
「愛・・・して・・・、あぁっ・・・あぁあっ!」
バドへの想いを叫んだと同時、手の中に熱い白濁を吐き散らしながらシドは絶頂へ達しって行った。


降りだした雨は、激しい夕立となって、外の景色を歪ませながら雨音を立てて地に落ちていく。

「はぁっ・・、は・・ぁ・・・。」
ぐったりと壁にもたれ掛り、快楽に上気した頬と潤む瞳。
「わ・・・たし・・・は・・・。」
段々と意識が覚醒していく中、欲望に任せて演じた痴態を浅ましく思う心が浮き彫りになっていく。

そして改めて気づかされたバドへの想い。


もう、何も知らないままで居られる事なんて無理だ。
でも、気持ちを伝える事は出来ない。

それならば・・・。


やがて、この夜遅くに、彼等の両親の訃報が齎される事となる。
それこそが正にシドの決断を実行する引き金となり、バドもまた底知れぬ遣る瀬無さに捕らわれていくこととなる――。




続く



戻ります。