奇子~あやこ~其の七~


奇子~其の七~

気がついたら、そこは見慣れた自室だった。
大きな窓から差し込む朝日で、シドは目を覚ました。


永い永い悪夢を見ていた気がする・・・。


そう思いながら、身を起こし、着替えのために壁に備え付けられている鏡の前に立つと、 全てのことは残酷な現実だと物語っていた。
「ッ・・・!!!」
手首には縛られた痕、そして白い身体に散らされた情痕・・・。
「や・・・ッ!」
そして何よりも、ベッドの脇の机の上に無造作に置かれていたナイフが、更にシドの心を深く抉っていく。
昨夜は薄闇の中でよく見えずにいた其れは、日の光の明るい下で見ると、自分の持つ其れとは若干違う形だった。
薄汚れた金箔、鞘を取ると、刃は丸まっている。
そして・・・、束の部分に“バド”と書かれた文字。


『お前を抱いていたのは・・・実の兄の俺なんだよ・・・。』


「いやだ・・・っ!」
耳元で囁かれた言葉が、再びリフレインして、シドはナイフを持ったまま目の前の鏡に拳を叩きつける。
「いやだ・・・。」
前かがみに蹲ったそのままの姿勢で、ポタポタと涙が零れ落ちていく。

何も知らず・・・何も知らされずに、目の前にある明るい幸せを真実だと思い、ぬくぬくと暮らしてきた自分と、 其の裏で苦しみぬいて来た、たった一人の双子の兄・・・。

きっと、罰が下ったんだ・・・。


その兄に抱かれて、肉欲に溺れ、何度も達した自分に吐き気を催した。
そしてその度に自分に向けられていた兄の侮蔑の眼差し・・・。


「・・・ッ・・ぁぁあああああーーーっっ!!」
腹の底から、遣る瀬無さと、自己嫌悪の叫び声を上げながら、再び拳を鏡に叩き付けた。
元々華奢な造りのその鏡は、その衝撃でピシリ・・・と、幾筋もの亀裂が入り、やがて粉々に砕け散った。



「どうなされました!?若君!」
ただ事ではない声と、そして硝子の砕け散る音を聞きつけて、この家の従者達がシドの部屋まで駆けつけて来た。

ドンドンドン! ドンドンドン!

「ここを開けて下さいシド様!!」
「何があったのですか!?」

ドンドン・・・!ドンドンドンドン!!

しかし一向に部屋の中から鍵が開く事は無く、扉の叩く音と、従者達の声に応える気配が無い。
やがて業を煮やした従者の一人が、マスターキーを取りに行き、数秒後、ドアの前に集まっている人垣をかき分けて、若い主の扉に鍵を差し込んだ。

ガチャ・・・!

「シドさ・・・っ!?」
「うあぁああああーーーっ!!?」
「きゃぁあああぁっ!!」
次々に悲鳴をあげる従者達。
「おい!誰か!!医者だ!医者を呼べーーーっ!!」
扉の向こうで彼等が目にした光景は、キラキラと朝日を受けて煌く鏡の欠片の中で、自らの左胸を真っ赤に染め、血だまりの中にうつぶせに倒れているシドの姿だった。
凶器となったのは、大きめな破片で、その鋭利な切っ先は鮮やかな血がべっとりと付いていた。
幸いにも、自らで刺した為のためらいがあったのか、僅かに急所は外れており、駆けつけて来た医者の手当てによって、シドは一命を取り留めた。
そして、この騒ぎによって遠くにいた彼の父母も呼び戻され、やがて使用人達にとって異常すぎた永い一日はようやく終えようとしていた。



「ぅ・・・。」
「シド!?あなた!シドが・・・。」
あれから五日経過した晩、眠っていた我が子の側にいた母親は、ずっと握っていた手が僅かに反応を示した事から、シドの意識が戻った事を伝えようと、側にいた夫を呼び寄せる。
「シド・・・。どうしてあんな事を・・・?」
長い間側にいてやれなかった我が子の突然の乱心に、母は涙を浮かべながら、それでも優しく問いかける。
しかし、開かれたはずのシドの瞳は、側らにいる母を映してはおらず、焦点の定まらないぼんやりと天井を見上げていた。
「シド?」
目覚めたばかりで意識がはっきりしていないせいだろうか?
そう思った母だったが、やがてシドはゆっくりと口を開き、小さな声でぽつりと言った。
「行かなきゃ・・・はやく・・・。」
「え・・・?行くって・・・どこへ?」
母の問いにも答えず、その言葉だけを繰り返しながら、むくり・・・と身体を起こし、ベッドから降りるシドを母は慌てて制止する。
「シドッ!?待ちなさい!」
「はなして・・・。行かなきゃ・・・。」
「あなた・・・っあなた!!」
その時夫は、シドの机に置かれた古びたナイフと、そしてあの部屋の鍵を手に取り眺め、愕然とした表情をしていた。
「あなた!シドを止めてください!!」
必死でシドの身体を抱きしめて、行く先を阻もうとするも、彼はどうにかしてそこから先に進もうとその腕の中でもがいている。
「はなして・・・。行くの・・・。バドのところへ・・・。」
「!!」
その言葉を聞いた時、母の顔が強張り、身体を押さえていた腕が一瞬ゆるむ。
その隙をついて、その中から逃げ出し、扉を開けようとドアノブに手をかけた時、今度は黙っていた父がそれを制した。
「どうして・・・?どうして行かせてくれないの?」
その表情と喋り方は、まるで幼子のようだった。
父は、その場にしゃがみ込み、そんな我が子の頭を優しく撫でながら、優しい声で言った。
「シド・・・。今から、バド・・・お前の双子の兄のところへ連れて行ってやろう・・・。」
「ホント?」
嬉しそうに微笑むシドを優しい眼差しで見やる父。だが、その眼に何処か冷たさをはらんでいるのを母は見逃さなかった。
「あなた・・・まさか・・・。」
「言うな・・・。これもこの家を守るためだ。仕方が無い事だ・・・。」
「あなたは狂っているわ!この子達には何の罪は無いのに・・・。」
しかし母の言葉も空しく、父はシドの肩を抱き、無常な音を響かせて扉を閉め、部屋を出て行った。
一人残された母は、その場に崩れただ泣き続けるだけだった。



「ふん・・・。もう来ないかと・・・!?」
毎夜繰り返されていた狂宴の場。その重い扉の音を、ベッドの上に腰掛けながら聞いたバドは、嘲笑を浮べ、そちらを振り返ったが、シドの側らに立つ 見覚えの無い影に、背中に厭な汗が伝うのを感じた。
「あ・・・。」

ドクン・・・ドクン・・・。

煩いほどに心臓が跳ね上がる。
まだ記憶に新しい、腐った大人達に嬲られた忌まわしい過去が鮮明に思い出されてくる。
「く・・・来るな!!」
バドは、懐からシドの短刀を取り出して、威嚇の為に刃をそちらに向けた。
しかしその影は一向にバドの方には近づこうとはせず、代わりにシドの背中を軽く叩いて、その部屋の中へ入るように促した。
「バド!」
「!?!?」
今までとは打って変わって、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて自分に近づいてきたシドに戸惑いを隠せずにいると、おもむろにその影は口を開いた。
「バド・・・。お前を迎えに来た。」
「なっ・・・!?」
す・・・っとその影が扉の中に入ってくると、闇の中で暮らしてきたバドの目は、すぐにその影の顔を判別できた。
自分とシドの面影のある男。
それが一体誰であるのか、バドは即座に理解した。
「迎えに来た・・・だと?今更よくものこのことツラを出せたものだよな。オトウサマ?」
皮肉に笑い、そして自分に纏わりついているシドの手首を掴み上げ、自分の方に引き寄せると、その喉元に短刀を押し付けた。
「あんた達が大事に育てたこの愛息は、あんた達にゴミのように捨てられた、この俺が調教し直しておいてやったよ!」
そう吐き捨てて、無邪気に笑うシドの服に手をかけて、父であるこの男の見ている前で一気に引き裂いていった。
「!?」
だが、顔を歪めたのはバドの方だった。シドの白い胸に巻かれた真新しい包帯。そこに滲み出ているのまだ新しい傷口からの赤い血。
しかしそれでも、シドはケラケラと子供のように笑うだけだった。
「シ・・・ド・・・?」
カツーン・・・とナイフを取り落とし、心の中で何かが急速に失われていく感覚を覚えながら、バドはシドの顔を覗き込んだ。
「無駄だ。」
闇の牢屋の中で、これ以上ない冷酷な声が響き渡る。
「それはもう、心のない抜け殻と同じだ。」
その言葉に、バドは例えようのない怒りを感じ、目の前の“父”を睨み付けた。
「だから・・・この俺を・・・?コイツの代わりにこれから仕立て上げようと言うわけか・・・?」
怒りで震える声を押し殺し、無意識のうちに、シドをその腕の中に抱きしめる。
「ふざけるな!俺もコイツも、お前等の良いように動く玩具じゃない!」
「だが、お前にとっては悪い話ではあるまい?」
バドは呆然として、目の前にいるこの男を見つめていた。
こんな・・・。こんな、身勝手な男が俺達の父親だと――!?
噛み締めていた唇の端からはポタリと血が滴り落ち、口内は僅かに鉄の味が広がっていく。
「!?」
その次の瞬間、不意に近づいてきた“父”が、バドの腕を掴み、強引にシドから引き離す。
「な・・何しやがる!?離せっ!離せよ!!」
「バド!」
抱きしめられていた腕が不意に奪われ、笑っていたシドの顔が、見る見るうちに不安と悲しみの表情に変わっていく。
そして、ズルズルと引きずられていくバドに向かって悲痛な声を上げた。
「バドぉッ!」
手を差し伸べ、必死に追いすがるシドのその表情がかつての自分と重なったバドは、“父”に掴まれたその手から逃れようとするが、その力は まだ少年の彼に振りほどけるものでは無かった。
「畜生!離せーーーっ!!」
それでも何とか、差し伸べてくるシドの手を掴もうと、バドもシドに向かって手を伸ばす。
拙い足取りで自分を追って来るシドとの僅かな距離でさえおよそ遠いものに感じていた。
「シド!」
しかしようやくお互いの指先が触れようとした距離までシドが辿り着いた瞬間。

ガシャ・・・ン

無常にもそこで、重い扉は何度目かの絶望をバドに与えたのだった。
「お前は、これからはこの家の跡継ぎとして生きていく事になるのだ・・・。」
初めて感じた寒々とした外気は、父の非情な言葉と共に、バドの心に深く突き刺さっていた。




つづく



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