痛いよ・・・
寒いよ・・・
おなかがすいた・・・・・
か細い息の下、そう縋るように思ってもそれはいっかな叶う事無く昨日まで暮らしていた町は紅い悪魔の様な炎で舐めつくされて行った。
傍らには自分を最期まで思って、守るように死んで行った母親が眠るように息絶えている。
――・・・あなただけは生き延びて・・・
それが彼女の最期の言葉だったが、今こうして町外れにある、誰も祈る為に訪れる事の亡くなった廃墟の教会に身を潜めている自分もこのまま炎に撒かれずともやがては訪れるであろう死を待つようにして、膝を抱えて座り込んでいる。
どうしてこんな事になったのか・・・。
数日前までは平和に暮らしていた自分を含めての、友達、先生、そして両親達・・・その他大勢の一般市民が巻き込まれた戦争。
理由なんか判らない。ただ、同じであるはずの人間が人間を殺すと言う目の前の事実だけが、自分の大事な人達を奪っていったことは確実で。
平和に暮らしていたいと言う思いを口に出すことも憚れて、ただこの戦には勝てとそれだけを教え込まれた。
おかあさん・・・・。
そんなものいらない、数ヶ月前までの平和な時間を、友達を、母親を返して欲しい・・・いいえ、せめて・・・。
「あ・・・?」
霞む視界の中、不意に崩れかけた天窓から差し込む月光の中、それを遮るかのようにして舞い降りた漆黒。
それはよくよく見ると段々近づいてきて、その漆黒は夜空よりも暗い闇色の翼だと認める。
「・・・・・・・・。」
ばさ・・・と静かに音を立ててその翼が一度小さくたたまれる音と、その目の前に立つのは、見たこともない程綺麗な顔立ちをした、でもとても・・・。
「天使様・・・・?」
そう呟いた自分の言葉に、目の前の“天使様”はとてもとても哀しそうな顔で微笑んで、そっと私に目線を合わせるかのようにしてしゃがみ込んで、すすだらけになった髪の毛に、すべすべした綺麗な白い手で触れてくれた。
「天使・・・様?」
「違うのですか?だって・・・。」
色は黒く見えるけれど、でもそれは夜の闇のせい・・・いいえ、とても綺麗に見える翼を持っているし、何よりもその綺麗で優しげな眼差しを持つあなたが天使様でなければ一体何だと言うの・・・?
「・・・・・・、この方は君のお母さんかい?」
ふと自分の髪を優しく撫で付けていたその、ヒトとは違う、朝日と夕暮れを薄く溶かしたような色の瞳を切なげに細めて、その横に居るさっきまで生きていた母親を見つめて問いかける。
優しいテノールの声はまるで子守唄の様で、私はさっきまで胸の中で温めていた願いを取り戻して胸の前で手を組みながら、この天使様を見上げた。
「はい・・・、お母さんは私を守って最期を迎えて・・・、私に生きろと言いました・・・。でも私は・・・、お母さんと同じ場所にいきたい。もうこんな、怯えて暮らすことのしか出来ない世界なんかいらない・・・だから・・・っ!」
お父さんは戦に駆り出されて、その無意味ともいえる戦いで人を殺した報いの様に殺された。
その帰りを信じて・・・、いや受け入れて、今は戦火を逃げ延びれば家族全員幸せで暮らせると言う夢を持っていたお母さんは、こうして叶う事の無い夢の中に逝ってしまった。
目の前の視界がぼやける程に流れ出る、溢れて止まらない涙。
「・・・・・・・・。」
涙が伝う頬に当てられた掌は、思っていたよりも少しだけ冷たかったけど、でも慈愛に溢れた温もりが伝わってくる。
「もう何も・・・苦しむことは無いんだよ・・・?」
甘い甘い睡を誘うようなその声に、張り詰めていた心がそっと解されていく。
先ほどまで感じていた、痛みも餓えも寒さも無くなって、ただ心地良い睡の中にそっと蕩たう為に私はゆっくりと目蓋を下ろして行く。
その裏側に広がるのは・・・、嬉しそうにして寄り添いながら笑うお父さんとお母さん。
そこに広がる景色は、まだ平和だった頃、よく三人で行っていた緑色の絨毯の様な草原。
あ、私の名前を呼んでいる。
お母さんが作ってくれたおべんとう・・・、早くいかなきゃおとうさんに食べられちゃう。
まって、まってて!
そのたまご焼き、たべちゃだめだよぅっ!おとうさん――・・・・・。
a hymn azure
†Lachrymal†
「・・・・・・・・・・。」
幸せそうな夢を見るようにして、永遠の睡りに付いた少女の閉じられた瞳にシドは優しく指先で触れる。
安らかな表情を見せて、今にも起き出してきそうな程のこの現世だけの借り物である器から取り出した魂。
「天使様・・・・か・・。」
彼女を迎えに来たのが本当は天使とは正反対である役目を持つ・・・所謂この子達の同胞が呼ぶ“死神”だと知ったら、きっとこの子はどう思っただろう?
実際にシドがここに来たのは、今この国で起こっている戦争によって、この町で死ぬはずの魂を全て回収するだけの使命を持ってやってきたわけで、この教会以外の外にある全ての息絶える運命の生きとし生けるもの達の死すべき魂を根こそぎ捕らえてから来ただけのことだった。
そうなった経緯と原因は疎外者である自分には知る由も無かったが、それでもこの大量の魂達が辿る事になった死は、彼らが望んでそうなった結果ではない事は確かで、同じヒトの手によって放たれた狂気によって傷付き痛めつけられた器から取り出していく魂は皆、苦しみ悶えて泣き喚きながら、死にたくない生きていたいと願い続けていた。
なのに・・・。
「・・・ちゃんと一緒に邂逅できるようにしてあげるから・・・。」
自分の姿が生きている間に見えて、その羽を見間違える事も無いだろうに、自分を天使だと信じ込んで、嬉しそうに幸せそうに眠るようにして取り出された、珠の様に清らかな魂を両手で慈しむように包みながら、シドはその黒くたたんだ自らの翼に抱き込むかのように埋め込んで、ばさ・・・と、闇の色の羽を広げてつま先を宙に浮ばせて、用は済んだ空の器が幾重にも折り重なる廃墟となった死の町を後にして、帰るべき場所に向かって天に飛び立っていく。
「・・・・・・・・・・。」
例の河の畔にバドがやってきたのは、シドが大量の魂を持って来て戻ってきたそれから半日後の事だった。
下界の世界における大量殺人は、狩と洗礼の一族総出のいわば合同行事である。
持って還ってくる魂はすぐにその記憶を取り除いて、箱庭に飼うように仕向けなければ、毎日誰かかれかが死に息絶えて、そして輪廻を迎える為にこの永遠浄土と人間が勝手に呼ぶこの場所にやってくるがため全ての仕事が滞ってしまう。
半端なく神経を使ってすり減らして、そしてまた羽を偽りの白さで満たしたバドはいつに無くくたびれていたのだが、どうしてもシドに逢いたくて仕方が無くて急いでその白い羽をはためかせてここにやって来た。
案の定、何時もの場所にシドは居たのだが、彼はそこに黒い翼ごと体を丸めて深い睡についていた。
無理も無い、バドは今しがた仕事が終わったばかりなのに対し、シドはずっと前の時間に帰って来てそれからずっと待っていたと逆算すれば待ち疲れてしまったのだと簡単に推理できる。
「・・・・シド。」
起こさないようにして、羽音を出来るだけたてない様にしてバドは対岸に居るシドの隣に舞い降りると、寒さを凌ぐかのようにして眠る彼の隣に腰を下ろす。
立てた膝の上に顔を乗せるシドの頬は、微かに濡れた涙の痕。
それを確かめたバドは、やはりなるべく音をたてない様にして、また新たに白く染まった記憶を司る翼を大きく広げて、丸ごとシドを包み込むためにその肩に手を回してそっと引き寄せた。
「お前は・・・」
シドが最後に看取ったあの少女の魂の記憶は、バドの羽の中に様々な痛みの記憶と共に埋もれていた。
彼女の最期の記憶は、痛みや恨みや哀しみよりも、とても幸せな夢の中にまどろむようにして召されたもので、その中でシドは、本当に優しく慈しむようにしてその子を眠らせたビジョンがバドの中に入り込んだのだ。
「・・・どっちにも向いてねぇよ・・・。」
う・・・んと軽く声を上げて身を捩ろうとするシドを更にきつく抱き寄せて、その膝から顔をそっと起こし上げて自分の肩に乗せた後、膝の上で組まれた片手をそっと掴む。
そしてそのままその手を、今しがた入った記憶が宿る、この綺麗な者に触れさせることを躊躇っていた自分の生えたばかりの白い翼にそっと触らせる。
狩も洗礼も似合わない、この綺麗な者とならばどこへでも堕ちても構わない・・・。
初めて出会って誓約を交わしたあの時と、白い羽に触れたくて仕方が無いような顔をしていても覚悟が足りなくて触れさせられなかったあの時よりも、確実に強くなっていく想い。
疲れ果てて眠るシドの、その黒い翼と後ろに伸びる一房の緑青の銀髪に口付けを落しながら、バドは目の前を流れていく、幾重の魂を運び、そしてこれからも運んでいくであろう、星屑の様な煌きを湛える大いなる輪廻の河の水面をどこか覚悟を決めた面持ちで見つめていたのだった――・・・。
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戻ります。
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