我ながら女々しくて嫌になると猗窩座はスマホを片手にそう思っていた。
今日は出張の最終日である金曜日。初めて童磨と離れた冬の日とは違い、すでに何度も出張を経験しているのでそれほどナーバスにならずに済んだし、クソ暑い中での北の大地のへの出張はむしろ有難かった。それでも童磨と離れてしまうということを天秤にかければ手放しに喜べなかったが。
今回の出張はさほど長くはなく10日もすれば帰れる程度のものだった。お互い仕事があるので連絡は毎日は取らず気が向いた時にだけ…といった感じだったが、今日、この日、夜空に花火が打ちあがっているのを見た瞬間、猗窩座はたちまち不安の渦に飲み込まれてしまった。
克服したと思っていた〝昔〟、鬼になったきっかけとなった記憶。
双子の兄である狛治のものである記憶が、今、一人でいる猗窩座の心の隙間に深く入り込んでしまった。
花火大会の夜の後、離れてしまったがゆえに
側にいなかったがために
あんなことに。
『ッ』
慌てて猗窩座は首を振る。
違う。もうそれは過去のことだ。兄の記憶だ。
今は違う。もう童磨も自分も鬼ではないし、童磨だって毒でやられることなどない。
そんな猗窩座の心情を知ってか知らずか、北の大地の夜空には千紫万紅の芸術品が間髪入れずに打ちあがっている。その度にじわりじわりと不安に蝕まれていく感覚。
たまらずに帰路を急ぐも、花火は始まったばかりでその音も煌きも独りでいる猗窩座に容赦なく降りかかっていく。
そう考えるともう居ても立ってもいられずに、猗窩座はスマホを取り出して通話ボタンをタップし、童磨の元へと電話をかけたのだ。
『はーい、もしもし?』
耳に届く柔らかな声に、ほっと心がほどけていく感覚に襲われ、思わずスマホを取り落としそうになる。心なしか嬉しそうに弾む声に涙が出そうなくらい安堵感を覚えてしまう。
『おーい、あかざどのー?』
ともすれば気を緩めば泣きそうになってしまうのは、ひっきりなしに聞こえてくる花火の音と光だけではない。童磨が此処にいないことにも起因するのだろう。
『…ああ、どうま』
それでもようやくの思いで名前を呼べた。
『うん、童磨だよ。元気?』
『っ……ああ』
元気、ではあるが元気ではない。今すぐにでも飛んで帰って抱きしめたい。蝕まれる不安を解消したいという気持ちと、こんな女々しい自分では呆れられるかもしれないという不安と、童磨がそんなことで呆れるはずがないという葛藤が猗窩座の声を擦れさせた。
『本当に? なんだか声に生気が感じられないんだけど…』
『ふはっ、生気ってお前』
それでもそんな童磨の言葉に猗窩座は小さく噴き出した。気弱になった心に恋人の優しく甘い声は何よりの特効薬だと思い、何でもないと言おうとしたその時。
『…なにか、あったの?』
『っ、』
思わずひゅっと息を呑んでしまった。そしてタイミング悪く猗窩座の背後からどどぉんという重い音とぱちぱちという音と共に火の光が降り注いでくる。
ああダメだ。
呑まれてしまう。
漠然とした不安にまた俺は呑まれて、そして無意味な生を、繰り返すに至るのだと。
『ねえ猗窩座殿』
『、なんだ?』
それでも気取られたくない。今生で誰よりも愛した彼に。こんな弱い自分を見られたくないと猗窩座は気持ちを奮い立たせ、童磨に言葉を返す。
『花火、上がってるのかな?』
『っ、ああ、そうだ』
声は、震えていなかっただろうか。変に思われていないだろうか。
俺はお前の前で対等でありたいのに。情けない自分などお前に見せたくはないのに。
くしゃり、と筏葛の髪をかき上げた猗窩座の耳に穏やかな童磨の声が再び聞こえてくる。
『そうかぁ…、そう言えばあの時もこの時期に上がっていたよねぇ』
童磨の言うあの時とは、数年前に訪れた北の政令指定都市にある弐と参に所縁のあるエリアでのことだった。
最初の予定で最終日間近の日に庭で花火をやっていたら唐突に夜空に打ちあがった花火に圧倒され、たまらなくなって童磨に想いを伝えたあの夜のことを猗窩座は思い返す。
────…俺はお前と話していると楽しい。
────…お前とこうしていられるのは当たり前だけど当たり前じゃない。奇跡だと思っている。
────…来年も再来年も、ずっとこれからもお前とこうして一緒にいたい。
ハッとなった猗窩座は向日葵色の瞳を微かに見開く。
そうだ。俺が言ったのではないか。
話していると楽しいし、奇跡だと思う時間を過ごせていること。
来年も再来年もずっとこうしていたいということ。
ずっと一緒にいることができた。ここまで来ることができた。それはまぎれもない事実であって。
少しずつ少しずつ、心の中にできた亀裂がふさがっていく。
かつて耐えられなかった重い過去よりも、甘く濃い過去から繋がる今の記憶に塗り替えられていく。
『…ねえ猗窩座殿…』
先ほどとは違う意味で言葉が出てこない猗窩座に、童磨は柔らかく言葉をかけ続けてくる。
『…俺ね、俺もね…。ずっと猗窩座殿と一緒にいたいよ』
『え…』
そしてまた言葉が詰まる。共有能力なんてもう無いはずなのに、どうして彼は…。
『何をいきなりって思うかもしれないけど、そっちの花火の音で思い出したんだぁ。
あなたが前に言ってくれたこと』
『っ!』
思わずスマホを取り落としそうになりながら、猗窩座は道の端にいた身体を進めていく。先ほどとは違い花火から身を隠すのではなく見える場所に移動するために。少しでも童磨と共有した思い出を鮮明にし、この焦燥に飲まれないために。
花火が良く見えるボート遊びと日本庭園が見事な市民に拓かれた憩いの公園に近づけば近づくほど人が多くなっていく。この人ごみの中でどれだけの者が前世の記憶をもって生れ落ち、今生で結ばれたものがいるのだろうとそんなことを猗窩座は考えた。
『…ねえ、猗窩座殿』
『…童磨…』
どうしても声が震えてしまう。先ほどとは違う、あまりにも幸せでたまらないから。隠したいという気持ちはもうすっかりなくなり、どれほどお前を愛しているか余すところなく知らせたいと考える猗窩座の耳に、とっておきの提案が柔らかな声でもたらされた。
『…お願い。猗窩座殿と一緒に花火が見たい。見せてくれるかな?』
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