「そう言えば今日ってバレンタインだったんだねぇ」
のんびりとした童磨のその言葉に俺は今まで抱いていた一縷の望みが一気に消えていくのを感じていた。
今日は2月14日、聖バレンタインデー。その由来は西暦1207年2月14日、ローマの皇帝クラウディウスが結婚を禁じたのに反抗して殺された、聖人バレンチヌスを祭る日から来ている。もっと言えば当時の皇帝のクラウディウスとやらは軍事力を優先しは、兵士らに家族ができると士気が弱まると考え、結婚を禁止していたとのこと。しかしバレンチヌスは神の教えに則りこっそりと兵士たちを結婚させていたという。だがその行動はグラディウスにあっさりとバレ、改宗を迫られてもバレンチヌスは愛の素晴らしさや尊さを説き断固として改宗をしなかったため皇帝に処刑されたのだとか。(Wi〇i先生調べ)
それ以降後世の人間たちによってバレンチヌスは恋人の守護神として祀り上げられ、今日のバレンタインデーとして伝わっている。最も、バレンタインデーは元々外国由来の風習であり、男女の恋愛ごととして定着し始めたのは14世紀頃だという。だが日本に伝わってきたのはかの二度目の世界大戦の後なのでその歴史は意外にも浅い。にも拘らずこんなにもバレンタインデー=チョコレート=男女間の告白の日だとほとんどの日本人に認識されているのは、お菓子会社の策略ともいう説もあるがそれでも純粋にその商魂にも感心する。
と、話は逸れたが俺はそういうイベントをまるっきり期待していなかった…嘘です、正直物凄く期待していました。
確かにこの日は男女の告白が許される日として認定されているが、ここ近年は男同士、女同士、はたまた友達や兄弟姉妹間でもチョコを送る日としても浸透し始めてきている。街中を歩いていてもバレンタインの装飾が目立ち、コンビニやスーパーに入ってもハートや赤や白やピンクのカラーリングでデコレートされたチョコレートコーナーの一角が設けられている。それを見ながら内心俺はそわついていたが、当の童磨は『へー、美味しそうだねぇ』と呟きながら、さっさとおにぎりや手巻き寿司、サラダチキンといったコーナーにさっさと足を運んでいく背中を見送り何度溜息を吐いたことか。
童磨曰く『お腹いっぱいになるならやっぱりタンパク質を摂るのが一番だよね』とのことだしそれには俺も賛成だ。というかそれを提唱してたのは友人として付き合っているときの俺だったよな分かってる単なる自業自得でしかない。だが俺から恋人として付き合ってくれと告白し、悩む素振りも見せずに『うんいいよ。俺も猗窩座殿とは親友より先に関係を進めて見たかったんだ』とあっさり承諾されて飛び上がるほど嬉しく思った俺的には、やっぱり期待せざるを得ないだろうがこのバレンタインという日に!!
いや違う。ここで童磨を責めるのはお門違いというヤツだ。俺は童磨が察することがこれでも苦手であるという性格は〝昔〟からの付き合いもあって知っているというのに。言わなければ分かる、言わなくても分かるなんてのは相手が自分のことを察してくれて当然だという甘っ垂れた心根が前提であり、それに胡坐をかいていることに他ならない。ましてや俺と童磨は過去の、〝昔〟の記憶を携えて生れ落ちたのだ。感情が少しずつ芽生えているとはいえ、そして童磨が自力でどうにかする気概のない他責思考で無責任な思考停止の病にかかっている頭の弱い人間に寄り添うことができるとはいえ、身近にいる人間に対してまでそれを発揮させる必要はない。本音で話せる親友が欲しかったというコイツの気持ちを汲み、そして恋人になりたいという俺の願いを掬い上げてくれる五分五分の関係に俺の道理ばかりを押し付ける訳には行かないのだ。
そう、バレンタインだろうが何だろうが、あれだけ〝昔〟に無体なことをしでかしていた童磨とこうしていられること自体が奇跡のようなものなのだ。恋人の守護神であるバレンチヌスのおっさんだって、昨今のチョコレート大商戦みたいな世の中になるなんて思いもよらないだろうから、こんな風にチョコも何も関係のなく穏やかに過ごす恋人同士がいることに案外草葉の陰でほっこりしているのではないか。
等と考えながら歩を進める俺の後で、ピタリと童磨の気配がそこで止まったのを感じ取った。
「童磨…?」
何か目を引くものでもあっただろうかと俺はあたりを見渡すが、そこにあるのはいつもの通学路だ。昨日降った雪の塊が所々点在しているだけの車道と歩道に、後方には今通ってきたコンビニがある。
その中に白のニットカーディガンの上から黒のチェスターコートを羽織る白橡の髪を持つ童磨の姿は、改めて見るとどこか浮世離れしており、それは今も〝昔〟も変わらないなという感想を俺に抱かせる。
「…あのね、猗窩座殿…」
見た目は野暮ったくともヤツが手にすればまるでヴィンテージのブランド物のように見えてしまう、多機能型のスクールバックの中をまさぐり童磨が取り出したのはゴールドの不織布バックでラッピングされた両手で抱えるほどの何かだった。
「そ、それ、は…?」
目にした瞬間、俺の期待値は否が応に最大限にまで高まる。間口にはピンク色の大き目なリボンで彩られており、それが俺へ向けて用意されたこの日のための贈り物であることは嫌でも理解する。否、嫌なんかじゃない。めちゃくちゃ期待していただけに嬉しさゆえに理解すると言った方が正しいな。日本語は世界一難しい言葉であるがゆえ、日本に生まれた人間でさえ正しく使うことの難しさをつらつらと考えていると、ずいっと童磨からその品物が俺に差し出された。
「…バレンタインの、チョコ。こういうイベントにかこつけなくてもチョコレートって美味しいからいつでも食べられるって思ってたんだけど、梅ちゃんが恋人ならきちんとそう言うイベントも楽しんだもの勝ちよって言われて」
童磨の口から出てくるのは〝昔〟、コイツが鬼にした上弦の陸兄妹の妹の方だ。今生でも兄である妓夫太郎と共に転生した梅は兄妹そろって童磨に懐いている。俺には何かと牽制をしてくる妓夫太郎と違い妹の方は、どうにも恋愛音痴である童磨の恋のアドバイザーとして色々吹き込…否、入れ知…違うな、アドバイスをしているのだが、まあ俺としては願ったり叶ったりなので妹の方には感謝していないこともないのだ。恩人を慕うが故に序列が無い今、過去に散々やらかした俺に当たりの厳しい兄とは違って。
「きっとあなたにも満足してもらえるかなって思うんだ、けど…」
────受け取って、くれるかい?
寒さだけのせいではなく白桃のように透き通った頬が薄紅に染まっている。四方を見渡すような色彩を持つ虹色が俺だけに向けられている。それだけで十分すぎる贈り物だし、受け取らない理由が今の俺にあるわけがない。
「も、ちろんだとも……! 嬉しいぞ、童磨!!」
感極まって贈り物ごと童磨を抱きしめてそのまま壁に押し付けて熱烈で甘いキスを仕掛けてやろうかと思った。だがそれは折角心を込めて自分への贈り物を選んでくれた童磨に対して失礼に値する。まずは差し出された気持ちを受け取ることが先決だと、嬉しさのあまり震える手を抑えながら猗窩座はそっと童磨の手の中からその包みを受け取った。
「あ、開けても良いか?」
「うん! もちろん♪」
まるで雪の華の精が舞ったかのような微笑に、俺はドキドキとした心を抑えきれない。ただ、天下の往来で恋人からのプレゼントを開けるというのは流石に通行人の邪魔になるので大人しく道路脇に避けしゃがみ込むと、かじかんだ指先でゆっくりとピンク色のリボンを解いていく。
今気づいたがこのリボンの色は俺の髪、ギフトバックの色は俺に合わせてくれた物なんだなということに胸がジーンとなる。最も此奴のことだから梅にアドバイスされたのかもしれないが、それを実行してくれたのは他でもない童磨だということには何ら変わりはない。
受け取った時は意外とずっしりとした重みを感じた。市販のチョコであれ手作りチョコであれ予想外の重さだったからこそ期待値が高まる。冷えた指先がこれほどまでにもどかしいと思ったことはなく、リボンをほどき広げた間口に手を入れると、かさりとした手触りにふと首を傾げた。
これが市販のものであれ手作りであれ手に伝わってくるのは包装紙かラミネート袋、もしくはさらさらとした不織布平袋ではなかろうかという予想にどれも反している。それはむしろなじみの深い感触…つるつるとした厚みを感じるプラスチック包装のそれだった。
「!?」
もどかしくなって引っ張り出してみるとそこから出てきた重みのあるそれに俺は目ん玉をかっぴろげた。
「あはは♪ 猗窩座殿、まるで吃驚した猫みたいな顔になってる」
そんな愛しい童磨の声が横から聞こえてきた。うん、確かに例えるならイカ耳になって瞳孔がまん丸く見開かれた猫どころか宇宙も召喚してるだろうな今の俺は。それほどまでに目の前にある品物は予想の遥か斜め上を飛び越えたものだった。
果たしてギフトバックの中から出てきたのは、栃木県に本社を置くチョコレート商店から発売されている手作り用板割チョコであった。内容量360gなのでたっぷりとした量でありおあつらえ向きに二本入っているので、手作りチョコをたくさん作る者にとってはまさにお買い得用品だろう。
だが俺に手渡されたのは板割チョコそのまんまの状態で、それを使ったトリュフやガトーショコラやブラウニーではない。
ニコニコと嬉しそうにこちらを眺める童磨にぎこちないながらも笑みを返し、もう一度俺の手の中にある贈られたチョコに目を落とす。うん、何度見ても透明のプラスチック包装に白文字で手作り板割チョコレートと書かれた商品名が書かれているチョコだった。
「あ、あのな童磨…?」
「なあに?」
「これ、贈ってくれたのって今日がバレンタイン、だからだよな??」
「うん、そうだよ」
そうそれは間違いない。先ほどのはにかんだような童磨の顔は俺の脳内フォルダにきちんと保存済みだし、いじらしい台詞だって全部覚えている。断じて聞き間違いなどではない。
「それで、その…どうしてこのチョコを贈ってくれたんだ…?」
まだだ、まだ一縷の望みはある。もしも童磨がこのチョコレートを贈ることによって、『俺と一緒にチョコを作ってくれないかな?』もしくは『これを溶かして俺ごと食べて♡』なんていう夜のバレンタインにご期待ください的なイベントのために贈ってくれた可能性だって捨てきれない。つうかむしろその可能性に思い至った俺は俺自身が大変なことになりそうなので詳細はあまり妄想しないよう努めたが、一度期待した脳みそはどうかそうであってくれという願望を抱き始める。だが俺は失念していた。今も〝昔〟も童磨はできることならば効率よく物事を進めたがるという性質であるということに。
「え、だって猗窩座殿って結構身体を動かす方だよね。それならこれくらいガツンとボリュームのあるチョコレートの方がお腹持ちがいいと思って」
…この時、俺の脳内にはトッカータとフーガニ短調及びおきのどくですが冒険の書は以下略とガビーンというオノマトペが無限ループで流れていた。そうだよな、食べ盛りの男子高校生ならそっちの方が色々と効率的だよな。
「それにこのチョコレート、バレンタイン前後にしかお店で見ないから特別感があって買ったんだけど…え、ダメ、だった??」
「い…いや、だめ、では、ない…が」
黒死牟の三点リーダーほどではないが、話し方がゆっくりになってしまうのを自覚しつつ、平素でも垂れ下がっている黒い太い眉毛を更に下げながら少しだけ寂しそうな顔をする童磨に俺は辛うじて首を横に振った。
ダメではない、断じてダメではない。童磨の言い分もよく分かる。確かに食べ応えがありそうだし満足度も高いだろう。100g579kcalという驚異のカロリーを叩き出している以上そのまま食べる人間を想定して作られたものではないことは分かっているが、新陳代謝も燃費もいい年頃だ。これくらいのカロリーなら一日持たずに消費する。
「……」
小さく息を吐きながらそう考えていたら、先ほどまで覚えていた失意がじわじわとした嬉しさに変わってきた。なんだ、童磨はきちんと俺のことを考えてくれていたではないか。俺が勝手に期待値を上げ過ぎただけだ。これ以上に無いほど俺を考えて買ってきてくれたことに変わりはないのだ。
小さく目を閉じ軽く息を吸って吐き、俺は緩んでいく頬を抑えきれないまま童磨に向き直る。
「そんな顔するな…。すまなかったな。誤解を招くような反応をしてしまった」
そして悲しそうな顔をさせてしまった自分の狭量さをまずは素直に詫びる。すると童磨の顔はホッとしたように緩やかな笑みを象った。
「良かったぁ…。あのね、実はね…」
「うん?」
もう一度童磨が愛用の多機能型バックをガサゴソと漁る。そこから出てきたのはレインボー柄のリボンで入り口を結ばれたアイボリーのギフトバックだった。
「俺も一緒に食べたくて、同じの買っちゃったんだぁ♡」
「~~~~っっっ!!」
ニカーッという擬音が聞こえるほどに無邪気に笑う童磨に、俺は先ほど湧いて出てきた期待が実現できるのではないかという希望を持つことに成功した。
「でももう〝昔〟みたいに燃費は良くないからなぁ…。いくらこの年齢の身体が若くて燃費が良くても流石に……」
むむぅと唇を尖らせて考え込む童磨の顔はとてつもなく可愛くてたまらない。お前、何だその可愛らしくもいじらしい理由は。俺と一緒に食べたくて同じのを買ったとかどれだけお前は俺を骨抜きにさせるつもりだ。
奈落の底から極楽へ一気に駆け上った俺は、童磨の身体をぐいと抱き寄せる。丁度〝昔〟、無限城に上弦のみが召集された際、此奴が俺の肩に手を回したのと同じ体勢なのを覚えているだろうか。
「なあ、童磨。これは手作り板割チョコなのは知っているよな?」
「あ、うん。知ってる。でも猗窩座殿ならそのままの方が美味しく食べてくれるかなって思って買ってみたんだよ」
「ああ、お前の気持ちはありがたくいただく。だがな、流石の俺も100g579Kcalのものを毎日食べるのはちと骨が折れる」
確かに食べられないことはないと先述した。だがいくら若いと言えども悪魔のおにぎりやザンダレサンドに並ぶほどの高カロリーなものを食して体型やら体重やらを崩して童磨に嫌われてしまうリスクは避けなければならない。最も童磨は外見の良し悪しよりも心や中身を重視する性質だから俺がいくら太ったところで嬉々としても喜んで受け入れてくれるだろう。だがそれは俺が嫌だ。好いた相手の前ではいつでも格好いい・綺麗な姿でいたいと思うのは男も女も関係なく至極当然のことだ。
だから俺は先ほど思いついたとっておきの素晴らしい案をそれとなく提唱する。
「だからな、童磨…。お前が一緒にと買ってきたチョコを俺と一緒に食べないか?」
「え、それは勿論だけども…」
ちら、と童磨の瞳が俺の手にあるチョコレートを見つめる。俺があげたチョコは? と暗に訴えかけてくる虹色の瞳がなんだか主人の身を案じる大型犬のようで特に可愛いなと思ってしまった。そんなわふわふとした白橡の髪をわしゃりと撫でると、撫ぜられ慣れていないのかひゃんっと首をすくませる反応もたまらなく愛い。
「もちろんこれも共に食べるぞ?」
そのまま耳元に顔を寄せると甘く花のような香りに混じったチョコレートの匂いがする。ああ今すぐにでも食べてしまいたい。
「お前と一緒にな」
その意味を敢えてこの場で教えずにきょとりとした童磨を尻目に俺はすぐさまスマホでチョコレート風呂の作り方を検索する。貰ったチョコレートだけでは若干物足りなさそうなので、童磨の分も一緒に入れても良いかと説き伏せるために種明かしをすると、そういう使い方もあったんだねぇと嬉しそうに笑いながらチョコレート風呂に買ってくれたチョコを使うことと一緒に入浴することを了承してくれた恋人を辛抱溜まらずにひしりと抱きしめてしまった。
今日は誰も帰らないため自宅に童磨を連れ込んだ俺は、たっぷりとポリフェノールとフェニルエチルアミンにまみれたチョコレート風呂と童磨の身体を堪能し、幸せいっぱいのバレンタインを噛みしめたのはそれから数十分後のこと。
調子に乗って羽目を外しに外した後、お互い腹が減り過ぎたのとチョコレートの匂いに充満する風呂にのぼせて動けなくなった俺を発見した双子の兄の狛治により救出されたのち、物理込みの話し合いにもつれ込んだ結果、チョコレート風呂永遠禁止令を出された挙句、口止めの代わりに一カ月間の風呂掃除を言い渡されたのは更にその3時間後のことだった。
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